レイトンハウスとは?
レーシングチームのブランド名で元々は「丸晶興産」の子会社の「メーベル商会」名義でスポンサーを行っていたが、「レーシングカーに漢字やカタカナは格好悪い」という社員の意見からレイトンハウスに変更したものです。
丸晶興産
レイトンハウス設立者の赤城明さんが亡くなる。バブル期のモータースポーツ界を席巻 https://t.co/lCSmV52WcA #F1jp #LeMans24jp #LEYTONHOUSE pic.twitter.com/QrDL9JEbeg
— AUTOSPORT web (@AUTOSPORT_web) August 9, 2018
レイトンハウスを語る上で「丸晶興産」は外せません。
親会社であり、元々不動産会社の社長の赤城明氏がオフィスビルやゴルフ場を経営し、その後ホテルレイトン・あの六本木で照明器具(バリライト)落下事件のディスコ「トゥーリア」の経営や地上げを行うなど、バブル時期に手広く事業を展開していた会社の事です。
親会社であり、元々不動産会社の社長の赤城明氏がオフィスビルやゴルフ場を経営し、その後ホテルレイトン・あの六本木で照明器具(バリライト)落下事件のディスコ「トゥーリア」の経営や地上げを行うなど、バブル時期に手広く事業を展開していた会社の事です。
ディスコ「トゥーリア」事件
88年 事件事故 トゥーリア照明落下 他
via www.youtube.com
1987年5月8日に、東京都港区六本木7丁目にOPENしたディスコ「トゥーリア」で1988年1月5日21時40分頃、ワイヤを巻き取るドラムとモーターを結ぶチェーンが切断し、吹き抜けとなっている地下1階のダンスフロアまで8.2m落下するに至った事故。
この事故で女性13名・男性4名の計17名が照明装置の下敷きになり、女性2名男性1名の3名が死亡、14名が負傷しました。
当時、プロ野球選手の桑田真澄さん女優の相楽晴子さんがいたと報道もされました。
事故後、開店からわずか半年足らずで閉店。
現場検証が終了した後に建物はすぐに解体され、跡地はパチンコ店となり今はクラブなど色々変わっている。
この事故で女性13名・男性4名の計17名が照明装置の下敷きになり、女性2名男性1名の3名が死亡、14名が負傷しました。
当時、プロ野球選手の桑田真澄さん女優の相楽晴子さんがいたと報道もされました。
事故後、開店からわずか半年足らずで閉店。
現場検証が終了した後に建物はすぐに解体され、跡地はパチンコ店となり今はクラブなど色々変わっている。
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現在でもディスコ「トゥーリア」跡地の店の軒先には慰霊碑代わりの地蔵が立っている。
スポンサー開始
via ja.wikipedia.org
スポンサー獲得のために飛び込み営業で訪問してきたレーシングドライバーの萩原光氏とその弟である萩原任兄弟の求めに応じて1984年の秋から全日本選手権クラスのレーシングチームのスポンサーとなったのが始まりです。
1986年シーズンには富士グランチャンピオンレースや全日本F3選手権、全日本F2選手権(→全日本F3000選手権)、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権や全日本ツーリングカー選手権といった全ての国内選手権クラスのレースへの同時参戦を開始し、それに合わせる形で子会社の「メーベル商会」の社名を「レイトンハウス」に正式に変更しました。
1986年シーズンには富士グランチャンピオンレースや全日本F3選手権、全日本F2選手権(→全日本F3000選手権)、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権や全日本ツーリングカー選手権といった全ての国内選手権クラスのレースへの同時参戦を開始し、それに合わせる形で子会社の「メーベル商会」の社名を「レイトンハウス」に正式に変更しました。
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萩原 光(はぎわら あきら)レーシングドライバー。神奈川県小田原市出身。星野一義の弟子。
1986年4月7日レイトンハウスのメルセデス・ベンツ 190E 2.3-16のテスト走行中、スポーツランド菅生(当時)の2コーナーでコースアウトしクラッシュ。マシンは炎上し、そのまま息を引き取った。享年29。
1986年4月7日レイトンハウスのメルセデス・ベンツ 190E 2.3-16のテスト走行中、スポーツランド菅生(当時)の2コーナーでコースアウトしクラッシュ。マシンは炎上し、そのまま息を引き取った。享年29。
アパレル展開
社名変更と同時期に「レイトンハウス」ブランドによるアパレル展開もスタート。
なお当初「レイトンハウス」ブランドのアパレルは、東京都内の本店ブティックにおいて、「レイトンブルー」と呼ばれたチームカラーのブルーをあしらった男性向けのブルゾンやトレーナー、ポロシャツを中心に展開した。
その後女性や子供向けのアパレルにも展開を拡大したほか、首都圏やサーキット内へのブティックの出店を進めていくことで売り上げが増大しました。
バブル時期に、この「レイトンブルー」「レイトンカラー」と呼ばれたブルゾンやトレーナーがメチャクチャ流行り本店に買いに行った時には結構な行列ができていたのを覚えています。
なお当初「レイトンハウス」ブランドのアパレルは、東京都内の本店ブティックにおいて、「レイトンブルー」と呼ばれたチームカラーのブルーをあしらった男性向けのブルゾンやトレーナー、ポロシャツを中心に展開した。
その後女性や子供向けのアパレルにも展開を拡大したほか、首都圏やサーキット内へのブティックの出店を進めていくことで売り上げが増大しました。
バブル時期に、この「レイトンブルー」「レイトンカラー」と呼ばれたブルゾンやトレーナーがメチャクチャ流行り本店に買いに行った時には結構な行列ができていたのを覚えています。