野中 徹博さんプロフィール。
野中徹博さんは、昭和40年に愛知県一宮市で生まれました。一宮は名古屋にほど近く、野中さんは自然と中日ドラゴンズのファンになり、特に谷沢健一選手に憧れました。早くからその才能を見いだされ、高校では中京高校に入学、激戦区の愛知県で甲子園出場を果たします。そして阪急ブレーブスにドラフト1位で入団。ここまでは、順調な道のりでした。
(wikipediaでは)
野中 徹博(のなか てつひろ、1965年5月22日 - )は、岐阜県加茂郡坂祝町出身の元プロ野球選手(投手)。
上のプロフィールは、下の参考図書を参考に書きましたが、wikipediaとは出身地が異なっています。真偽はどちらか不明ですが、おそらく書籍のほうが正しいのではと思われます。
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意中の球団ではなかった阪急ブレーブス。
野中さんは、愛知県出身の中日ファンであり、セ・リーグへの入団を希望していました。意中の球団はもちろん中日。しかし、中日は、こちらも愛知県・享栄高校の大型新人の藤王康晴さんを1位に指名。野中さんは阪急ブレーブスに1位で指名されます。
彼は落胆しますが、阪急は、野中投手にエースナンバー18番を提供するなど、最高の待遇で迎えました。
そして、「とにかくどの球団ででも、名を残すことが必要だ。」と、入団を決めます。
彼は落胆しますが、阪急は、野中投手にエースナンバー18番を提供するなど、最高の待遇で迎えました。
そして、「とにかくどの球団ででも、名を残すことが必要だ。」と、入団を決めます。
フォーム改造を命じられる。
しかし、当時の阪急ブレーブスは、黄金期からの世代交代の時期に当たっていて、コーチ陣の育成力もあまり育ってはいない、コーチになりたての人が就任していました。
二軍スタートだった野中投手は、そこで、「フォーム改造」を命じられます。
これが、彼の野球人生を大きく狂わせてしまいます。
二軍スタートだった野中投手は、そこで、「フォーム改造」を命じられます。
これが、彼の野球人生を大きく狂わせてしまいます。
レギュラーを獲るために必要なこと。
もちろんコーチも、将来の大器を育てようという一心でフォームを改造したのですが、それにより野中さんの持ち味を消してしまうことになります。新しいフォームに慣れることはできず、無理をして肩を壊してしまいます。
この時、野中さんは、「実力だけではなく、人との出会い、運が作用しなければ一軍で抜擢されることは難しい」ということを思い知ります。
高校のエース時代は、「俺の球を打てるなら打ってみろ!」という強気の投球ができていたのに、肩を壊して強い球が投げられなくなったこともあわせて、「何とか打たれないようにかわそう」と、精神面が弱くなっていることに気づきます。
この時、野中さんは、「実力だけではなく、人との出会い、運が作用しなければ一軍で抜擢されることは難しい」ということを思い知ります。
高校のエース時代は、「俺の球を打てるなら打ってみろ!」という強気の投球ができていたのに、肩を壊して強い球が投げられなくなったこともあわせて、「何とか打たれないようにかわそう」と、精神面が弱くなっていることに気づきます。
不運の中、一度目の引退。
彼はわずかな望みをかけて肩の手術をしますが、肩の回復は果たせず、1988年の秋、球団が阪急からオリックスへと名前が変わる時に、野手への転向を命ぜられます。
しかし二軍では活躍したものの、戦力外通告を受け、わずか24歳で現役を引退します。
オリックスと言えば思い浮かぶのは、なんといってもイチロー選手です。彼を育てたのは仰木彬監督です。仰木監督は近鉄の野茂英雄投手も育てましたが、仰木監督のすごいところは、その選手の持ち味を生かし、フォーム改造をしなかった点にあります。野茂投手のフォームも、イチロー選手のフォームも、非常に独特の形をしています。それをそのまま生かした結果、2人とも海を越えて大活躍しました。
歴史にもしもはありませんが、もし野中さんがあと10年遅かったら、仰木監督のもとで育成されたら、違った結果になっていたのでしょう。歴史のいたずらのようなものを感じます。
しかし二軍では活躍したものの、戦力外通告を受け、わずか24歳で現役を引退します。
オリックスと言えば思い浮かぶのは、なんといってもイチロー選手です。彼を育てたのは仰木彬監督です。仰木監督は近鉄の野茂英雄投手も育てましたが、仰木監督のすごいところは、その選手の持ち味を生かし、フォーム改造をしなかった点にあります。野茂投手のフォームも、イチロー選手のフォームも、非常に独特の形をしています。それをそのまま生かした結果、2人とも海を越えて大活躍しました。
歴史にもしもはありませんが、もし野中さんがあと10年遅かったら、仰木監督のもとで育成されたら、違った結果になっていたのでしょう。歴史のいたずらのようなものを感じます。
温存した肩が、奇跡の復活を果たす。
引退後の野中さんは、東京に出て多くの職を経験しました。ラーメン店、訪問販売員、広告代理店、ロケバスの運転手。
サラリーマン生活も3年目を迎えるとき、「ドカベン」の水島新司さんの誘いを受け、草野球を始めます。
そうした中、たまたま関西地区のテレビ局の企画で、吉本興業の芸人さんと試合をやることになりました。
9回、野中さんはマウンドに上がります。不思議に肩も痛くなく、投げた速球が138キロを記録。その球を受けた元大洋の若菜嘉晴さんが、「お前、まだ現役行けるぞ!」と叫びます。
野中さんは、この出来事を、フィジカルとしての肩が回復したのもあるが、メンタル的な弱さ、迷っていたもの、悩んでいたものが野球をやめたことで吹っ切れたのだ、と言っています。
サラリーマン生活も3年目を迎えるとき、「ドカベン」の水島新司さんの誘いを受け、草野球を始めます。
そうした中、たまたま関西地区のテレビ局の企画で、吉本興業の芸人さんと試合をやることになりました。
9回、野中さんはマウンドに上がります。不思議に肩も痛くなく、投げた速球が138キロを記録。その球を受けた元大洋の若菜嘉晴さんが、「お前、まだ現役行けるぞ!」と叫びます。
野中さんは、この出来事を、フィジカルとしての肩が回復したのもあるが、メンタル的な弱さ、迷っていたもの、悩んでいたものが野球をやめたことで吹っ切れたのだ、と言っています。
台湾のプロ野球で活躍。
トレーニングをし、野中さんは台湾の球団に入団します。28歳の時でした。
そして1993年4月、ロングリリーフをした試合でチームが逆転勝ちをし、勝利投手となります。
これが野中さんのプロ初勝利でした。
そして15勝4敗1セーブの成績を残し、日本の球界でも注目されます。
そして1993年4月、ロングリリーフをした試合でチームが逆転勝ちをし、勝利投手となります。
これが野中さんのプロ初勝利でした。
そして15勝4敗1セーブの成績を残し、日本の球界でも注目されます。
すんなりと日本復帰とはいかなかった。
しかし、勝ち頭の選手を、台湾の球団もおいそれとは日本に譲ろうとはしません。
在京の球団への入団も決まりかけていた時、台湾の球団が「自分のチームに保有権があるから、日本には行かせない」と言い張ります。
入団予定の球団は台湾に子会社を持っていたことから、台湾での会社の立場を考え、野中さん獲得を見送ります。
そして、新たに野中さんを獲得することになったのは、彼が幼いときから憧れていた、中日ドラゴンズだったのです。
ものすごい回り道をして、彼は意中の球団に入団します。
在京の球団への入団も決まりかけていた時、台湾の球団が「自分のチームに保有権があるから、日本には行かせない」と言い張ります。
入団予定の球団は台湾に子会社を持っていたことから、台湾での会社の立場を考え、野中さん獲得を見送ります。
そして、新たに野中さんを獲得することになったのは、彼が幼いときから憧れていた、中日ドラゴンズだったのです。
ものすごい回り道をして、彼は意中の球団に入団します。