【1983年阪急ドラフト1位】野中徹博さん【不屈の精神】
2017年11月9日 更新

【1983年阪急ドラフト1位】野中徹博さん【不屈の精神】

1983年の阪急ブレーブスのドラフト1位、野中徹博投手。日本のプロ野球では数字こそ残せなかったものの、波乱万丈、転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がりの人生は人の心を打つものがあります。どんな選手だったのか、記事にしてみました。

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10.8決戦(じってんはちけっせん)は、1994年10月8日に日本の愛知県名古屋市中川区のナゴヤ球場で行われた、日本野球機構セントラル・リーグ(以下「セ・リーグ」)の中日ドラゴンズ(以下、「中日」)対読売ジャイアンツ(以下、「巨人」)第26回戦を指す通称である。
日本プロ野球史上初めて、リーグ戦(公式戦・レギュラーシーズン)の勝率が同率首位で並んだチーム同士が、最終戦で直接対戦する優勝決定戦となり、巨人が勝利しリーグ優勝を果たした。後述するとおり、日本社会の広い範囲から注目された事象である。
この年、野中さんはリリーフで活躍し、シーズンで一時10.5ゲーム差をつけられていた巨人に追いつく大きな原動力になりました。
そして10.8決戦。
6-3で試合には敗れましたが、ここまで逆転できた中日は、当然最後まであきらめず、逆転を信じて、1点の追加点も与えられません。
この試合の8回と9回の締めの場面に、過去の実績面では郭源治投手や鹿島忠投手などのほうが数段上であるにもかかわらず、高木監督は野中さんを指名します。
そして見事にこの2回を抑えます。
伝説のあの試合の、負け試合とはいえ締めくくりをしたのが野中さんだったとは、知りませんでした。

しかし、中継ぎは数字が出にくいポジションであり、今でこそ「ホールド」という数字が注目されていますが、当時は「0勝1敗1S」という3つの数字しか見られない時代で、1996年オフには再び戦力外通告を受けます。
2度目の解雇です。

野村再生工場で、見事初勝利。

野中さんは1997年、ヤクルトに入団します。監督は「再生工場」と言われた野村監督。
ここでこの年、監督の期待に応える活躍を見せ、5月27日の横浜戦で、中継ぎで登板し、チームが逆転し、勝利投手になります。
プロ在籍10年目の初勝利です。プロ入りしてから14年目、32歳。
この年44試合に登板、2勝3敗、防御率2.28、投球回数55回3分の1。チームの優勝に大きく貢献しました。

結局はビジネスは、人との出会いが大きなファクターになる。

野中さんは確かに類まれなる才能を持ち、甲子園でも活躍。
ドラフト1位で阪急に指名され、エースナンバーを背負う。
しかし、たまたま入団した阪急では、経験の浅いコーチにより才能をつぶされます。
そして、水島新司さんに出会い、若菜捕手に力を発見される。
中日では高木監督に抜擢される。
そして、再生工場、野村監督に出会い、また、野村監督の一番弟子、古田捕手に出会い、才能が開花。チームの優勝にも貢献する。

出会いは、たまたま、偶然が多いのですね。
しかし、それをモノにするかどうかは、野中さんが野球をあきらめなかったことにあるのではないでしょうか。
野中さんから学ぶことは、出会いがないのを嘆いていても仕方がない。これは運でしかない。
しかし、人生を変える出会いは必ずある。そこまでどれだけチャンスをものにする「気持ち」があるかどうか。
つまり、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という、どこかの漫画のセリフは、真実なのだということを体現してくれるのが、野中さんの生き様ではないかと思います。
野中さんは、現在は看板屋さんの会社で、上司として、部下を指導する立場のお仕事をしていらっしゃるそうです。
野中さんの記事を書いていて思うのは、「常に立ち止まっていない人だな」という感嘆です。
プロ野球をクビになったらすぐにラーメン屋からはじまりいろいろなサラリーマンをやる。そして野球のチャンスがあれば野球をやる。クビになったら次、そこで栄光をつかみまたそこをクビになったら次の仕事を、どれだけ畑違いのことでもやる。
数字では2勝のプロ野球選手ですが、その内容は、10.8決戦のクローザー(敗戦とはいえ、歴史的な投手でしょう。)でもあり、ヤクルト優勝の立役者でもある。
非常に内容の濃い人生だなあと思います。

チャンスがないからしょうがねえ、引きこもろう、という行動をとるのも自分、チャンスが「今」ないから次にチャンスが来るまで他のことをやろう、という行動をとるのも自分です。

今後も、野球以外のことになるのかもしれませんし、もしかしたら野球の監督になったりするのかも?しれませんが、野中さんのご活躍に期待したいと思います。

1984 野中徹博 1 ジュニアオールスター

阪急時代の野中さんの映像がありましたので、ご紹介します。
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