オリンピック出場とプロレスデビュー
明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。
大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。
盟友・長州力との合体
ジャンボ鶴田&天龍源一郎VS長州力&マサ斉藤 85年1月東京 - YouTube
All Japan Pro-Wrestling. Jumbo Tsuruta&Genichiro Tenryu VS Riki Chosyu&Riki Chosyu 85'Jan.Tokyo
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米国で事件に巻き込まれ投獄される
1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。
常に追いかけ続けたライバル「アントニオ猪木」
アントニオ猪木 VS マサ斎藤 試合後の乱闘 - YouTube
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ついに最終決戦は「巌流島」へ
対戦相手には維新軍のマサ斎藤が名乗りを上げた。折から斎藤も、この年の3月に行われた「INOKI闘魂LIVE PARTⅡ」での一騎打ち以降、幾度も猪木と当たる機会はあったものの、いずれも納得しかねる結果に終わったところから「(今度戦う時は)死ぬまでやろう」とまで対戦アピールをエスカレートさせていた。武蔵と小次郎の戦いに倣い巌流島を決戦の場所に定め、かつファンに媚びるつもりはないとのことから無観客試合で、時間は無制限、ノールールで行われることになった。
試合には山本小鉄と坂口征二が立ち会った。午後4時30分、山本小鉄が試合開始の合図を送ったが猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、30分後、斎藤に向かって歩み寄ってきた。
試合は一進一退の攻防が続き、午後6時になった時、照明代わりに、コーナーポストにかがり火が立てられた。試合が2時間経過すると、両者ともフラフラとなったが、猪木は斎藤の背後から裸絞めを決め、2時間5分14秒、猪木のTKO勝利となった。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。
獲得したタイトルの数々
NWA
サンフランシスコNWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):2回(w / キンジ・シブヤ)[7]
NWAハリウッド・レスリング
NWAアメリカス・タッグ王座:6回(w / キンジ・シブヤ)[8]
NWAビート・ザ・チャンプTV王座:1回[10]
NWAオールスター・レスリング
NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / ジン・キニスキー、デール・ルイス)[11]
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回[27]
NWAフロリダ・タッグ王座:5回(w / イワン・コロフ×3、ミスター・サト×2)[15]
NWA USタッグ王座(フロリダ版):2回(w / ミスター・サト)[16]
NWAフロリダTV王座:1回[18]
サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
NWAアラバマ・ヘビー級王座:2回[28]
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回[29]
ワールド・レスリング・フェデレーション
WWFタッグ王座:2回(w / ミスター・フジ)[19]
アメリカン・レスリング・アソシエーション
AWA世界ヘビー級王座:1回[3]
新日本プロレス
NWA北米タッグ王座(日本版):1回(w / ヒロ・マツダ)
IWGPタッグ王座:2回(w / 長州力、橋本真也)