2021年4月12日 更新
【アントニオ猪木】燃える闘魂も現在は車椅子生活?これまでの功績や名言を振り返る!
”燃える闘魂”の異名をもち、プロレスラー・政治家としてご活躍されたアントニオ猪木さん。現在は車椅子生活をしているなんて情報が入ってきました。今回の記事では、その真偽やこれまでの功績・名言を振り返っていきますので、ぜひ記事をご覧になってご覧になってくださいね。
プロレスラー・政治家として有名なアントニオ猪木さん
アントニオ猪木さんの経歴
1943年、神奈川県横浜市に生を受けたアントニオ猪木さん。父親はアントニオ猪木さんが5歳のときに亡くなり、実家の石炭問屋は、終戦後にエネルギー資源が石油に変わったことから倒産してしまったそうです。
幼少期は運動神経が鈍かったというアントニオ猪木さん。1960年、たまたま興行でサンパウロに訪れた力道山さんからスカウトされ、彼はプロレスラーの道を歩むことになります。力道山さんから「裸になれ」と声をかけられ、アントニオ猪木さんが上半身を見せると、背中周りの立派な筋肉を気に入られたのだそうです。日本プロレスに入団することが決まり、日本に帰国することに。
1964年、アントニオ猪木さんは武者修行をしにアメリカに旅立ちました。しかし、当時は正当な就労ピザが取得できず、アントニオ猪木さんは本名が入ったリングネームを避けていたそうです。ロサンゼルスにある日本人街をもじった『リトル・トーキョー・トム』等の名義でアメリカのリングに上がっていました。
そして、すでに日本プロレスを脱退していた豊登さんと共に、新しいプロレス団体『東京プロレス』を旗揚げしました。しかし、試合がテレビ放送されなかったことや豊登さんの横領で東京プロレスの業績はみるみる悪化し、旗揚げから僅か3カ月後には破産してしまいます。
アントニオ猪木さん単独でも、UNヘビー級の王座を獲得し、NWA世界ヘビー王座に挑戦しました。
同期のプロレスラーとして人気を分かつジャイアント馬場さん。次第にアントニオ猪木さんは対戦したいと思うようになりますが、当時は日本人同士の試合がタブーとされており、その要求は日本プロレスには受け入れられませんでした。加えて、日本プロレスの不透明な経理にも疑問を感じていたアントニオ猪木さん。両者の確執は1971年の追放処分で決定的なものとなります。
それでもストロング小林さんとの大物日本人対決、ビル・ロビンソンさんとの国際対決で人気は少しずつ上向いていきます。タイガー・ジェット・シンさん、スタン・ハンセンさん、ハルク・ボーガンさんといった外国人スターの育成にも成功すると、WWWFと提携して外国人スターを呼べるように。
こうしてアントニオ猪木さんは、プロレス黄金期の片翼を担う存在になっていきました。
こうした流れは、総合格闘技の礎として、現在も受け継がれていますよね。
1982年には、沖縄松林流空手の水谷征夫さんとともにフルコンタクト空手の団体『寛水流空手』を設立されました。
1990年、サダム・フセイン政権のイラクはクウェートに侵攻。このとき、イラクは日本を含む国際連合から非難や制裁措置を受けたため、イラクにいた日本人41人を事実上の人質として連行・国外移動禁止処分にしています。
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愛称 :燃える闘魂
生年月日:1943年2月20日
出生地 :神奈川県横浜市
職業 :プロレスラー
政治家
事業家
活動期間:プロレス1960年~1998年
国会議員1989年~1995年
2013年~