テレビに初めて登場した?!「オカマの東郷健」
昭和7年、兵庫県加古川市に生まれる。1955年(昭和30年)関西学院大学商学部卒業。第一銀行行員を経てガソリンスタやブロイラー養鶏場を経営していた。1963年(昭和38年)に姫路市でゲイバー「るどん」1968年(昭和43年)に東京でゲイバー「とうごうけん」をオープンする。
1971年(昭和46年)に参院選に立候補するも落選。1979年(昭和54年)8月24日に「雑民の会」を設立。1982年(昭和57年)の参議院選挙では全国区が比例代表区に変ったことで無所属での立候補ができなくなったため政党としての『雑民党』を結成した。国政選挙に16回立候補しているが、供託金を支払うために何度も経済的に破綻している。
東郷の家系は、祖父の名倉次は衆議院議員(立憲改進党)であり、父の東郷伍郎は兵庫県議会議員だった。
1981年(昭和56年)、ゲイ雑誌「The Gay」を創刊、ゲイの人たちの自由の権利を訴えてきた。2002年に『常識を越えて―オカマの道、七〇年』を出版した。
2006年から2011年まで、新宿ゴールデン街五番街で『Bar 東郷健』をオープン。
まだ、「オカマ」という言葉が一般的に知られていなかった1970年代に東郷は宣伝カーに乗って「オカマ、オカマの、東郷、健。参議院議員立候補、オカマ、オカマの東郷健がまいりました」と叫び、選挙演説をした。
東郷健は、同性愛者であるが結婚歴があり子供をもうけている。
2012年(平成24年)4月1日、前立腺癌により死去。79歳だった。葬儀の喪主は長男が務めた。
同年7月1日には、BAR東郷健の客らによる追悼会「東郷健を偲ぶ」が催行された。
J.A. シーザー『J.A. Caesar』– 薔薇門『Baramon』[1972] - YouTube
この時の東郷健は着物姿で顔には化粧をしていた。当時の子供の目には芝居の役者?とにかく化粧をしている男性とはっきり認識できた。オカマという言葉を知らなかったし、オトコオンナ的な印象を感じることはなかった。しかし、普通の人とは違っていた事は確かだった。
1983年の第13回参議院議員通常選挙の政見放送で、雑民党党首の東郷健は差別用語を発言したため、放送時に無断で当該部分の音声を削除される「政見放送削除事件」が起きた。東郷はNHKの編集行為を公職選挙法違反として損害賠償請求した。東京地裁の一審判決では東郷の主張は認められたが、東京高裁で逆転敗訴している。「差別用語を使用した点で、他人の名誉を傷つけ善良な風俗を害する」として最高裁は削除を正当とし、原告であるの東郷健の敗訴が確定した。
「魅惑ゲイボーイ」美輪明宏は、男?!
1952年、17歳になりゲイバーやバーテンなどのアルバイトをしていた美輪は、シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として人気を博す。三島由紀夫、吉行淳之介、中原淳一など数多くの作家文化人と交流し支持された。
1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーしたシャンソンを歌い美少年として一世を風靡する。その後、同性愛者である事を公表したことで人気が急落して不遇の時代を送る。1966年に「ヨイトマケの唄」が注目され、人気は再燃した。その後、歌手、俳優・演出家・声優・コメンテーターとしても活動している。
美輪は、三島由紀夫をはじめ川端康成、五木寛之、など多くの文化人を魅了した。また、恋多き男として、岡田眞澄、田宮二郎、赤木圭一郎などと噂になったこともある。
また、美輪は40年以上前に知り合った、当時17才で文学座の研究生だったA氏(男性)を自身の付き人にし自宅に住まわせていた。現在、A氏を養子にして『株式会社オフィスミワ』の社長にしている。
「ゲイ道一筋六十年」青江のママ(青江忠一)
1955年(昭和30年)に銀座6丁目に「青江」六本木には「ラ・マダム青江」を開業した。70年代には、パリに青江の姉妹店をオープンした。多くのゲイボーイを育て、テレビなどにも出演していた。1989年6月に著作「地獄へ行こか青江へ行こうか : 女より女らしく・青江ママのゲイ道一筋六十年」を発表した。
元ゲイボーイ大御所マダム青江一周忌・・・ | マザーサヤリル回顧録
あまり画像が公表されていない青江のママであるが、その外見は、凛々しい。
男気を感じる美しさといえるかもしれない。
女になるために60年間命をかけて戦った!カルーセル麻紀
高校に進学したカルーセル麻紀は、中退して家出、札幌のゲイバー「ベラミ」に住み込みゲイボーイの修行を積む。その後、全国のゲイバーやキャバレーなどを経て、19歳の頃に大阪のゲイバー『カルーゼル』に落ち行く。この頃に日本で去勢手術を受け睾丸は摘出した。
1963年(昭和38年)に芸能界デビュー。1968年(昭和43年)25歳のとき、日本コロムビアから楽曲『愛してヨコハマ』で歌手デビューした。昭和46年(1971年)に日劇ミュージックホール「花ひらくエロトピア」に出演している。
モロッコでの性転換手術から32年経った2004年10月、日本で性同一性障害者特例法が施行された。カルーセル麻紀の性別の変更が認められて戸籍上も女性となった。本名は、「平原徹男」から「平原麻紀」と改名され、続柄は二男から二女になった)。
15才のときに年齢を偽りゲイバーで働き始めたカルーセル麻紀は、2022年に喜寿を迎える。10代の頃に同時に6人の男と付き合ったり、30才のときにフランス人の男性と同棲したり、今までに数十人のノンケの男性(女性を好む異性愛者の男性)との同棲を経験している。ただ、1度だけ体が男だった頃に女性と経験したこともあるという。
超激レアCD!!とうごうけん ジェンダーフリー歌謡の歴史的名曲「ツブシタレ/好きなんや(作詞東郷健/作曲山下毅雄)」SP-1001