1922年3月10日 東京都台東区浅草生まれ。
小学生の頃、級友からのいじめに遭い、その際ナイフで級友を傷つけてしまう。
1934年12歳の時に「八幡学園」に入園する。
学園が個々の園児に課した作業のひとつに「ちぎり絵(貼絵)」があり、学園の指導のもと才能を開花させていった。
驚異的な映像記憶力の持ち主で、行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。特に、「花火」が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景を八幡学園や実家に帰ってから記憶を基に作品を仕上げている。花火を手掛けた作品としては、『長岡の花火』が著名である。
1939年1月大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、多くの人々を賛嘆させた。
1940年18歳のときに突然学園を抜け出し、それから約15年半リュックひとつの放浪の旅へと出て行った。この記録は『放浪日記』(1956年)にまとめられた。
1971年7月12日 脳溢血が原因で49歳没。
1981年には映画版も製作された!
この作品では制作会社の作風も強く影響し、ドラマのようなメルヘンチックなストーリーではなく、清の生涯を追ったヒューマンタッチな作品となっている。
ドラマシリーズでは「短パンにランニングシャツ」が定番だったが、この映画での衣装は一部のみで、学園の制服、半纏、着物、裸にタオル一枚といった服装も登場する。
この年の国際障害者年記念作品として制作されており、清が生まれ育った当時の障害者がおかれた社会的境遇、その中で才能がいかに芽生え、大成していったかを追う作品として仕上がっている。作中、母親は「障害のある子どもたちの親のほとんどは、子どもより先に逝かねばならない苦しみを恐れながら生き、自分が死んだ後の子どもたちの将来を憂いながら死んでいる」と残された障害児(者)たちの親の苦しみを訴え、清は才能と短命ゆえにまだ幸運な存在だったのだ という事など、障害者とその家族に対する理解と支援を強く訴える、メッセージ性の強い社会派作品でもある。
芦屋雁之助は山下清本人とも対面!エピソード集
裸の大将・山下清との出会いは藤本義一が脚本を担当した1964年の舞台公演が始めであり、その後数回、本人とも対面している。
本名が山下と同じ清である。
弟と共に大食漢で知られ1日5回の食事を摂っていた。それが原因で持病の糖尿病を患ったといわれているが、「山下清の役作りのために体重を落とすわけにもいかなかった」と本人は晩年に語っている。
本作は非常に人気が高く、2010年代以降も再放送されている人気ドラマでもある。
※少年時代は南沢一郎