オノ・ヨーコとは?
オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本生まれのアメリカの芸術家、音楽家。ビートルズのジョン・レノンと結婚、レノンとの数々の共作でも知られている。
1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。
生い立ち
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小野洋子(オノ・ヨーコ)は父の小野英輔、母の磯子との間に生まれた。父・小野英輔は洋子が生まれた当時は東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)の前身である横浜正金銀行の副頭取だった。横浜正金銀行は第二次世界大戦において、外国通貨を収集する機関であり、その頭取は日銀総裁になるともいわれていたそうである。
父・小野英輔は銀行家に転身する前はもともとピアニストでした。父の尊敬する音楽家は、バッハとベートーヴェン、そしてブラームスの3B(3人の頭文字から)で、この3大家が父・小野英輔の音楽のすべてでした。ヨーコも幼い頃にピアノのレッスンをはじめさせられていますが、父・英輔が尊敬する3Bの音楽家が演奏カリキュラムのほとんどすべてをしめていました。父・英輔はそれを聴いて満足だったといいます。また、母・磯子も音楽を趣味にしていましたが、父とは真逆で、伝統的な和楽器を好みました。7つか8つもの和楽器を奏すことができたといいます。
つまり、洋子自身も芸術的な素養を幼くして身につけることができたのである。
この小野英輔の父、すなわちオノ・ヨーコの父方の祖父は小野英二郎で元日本興行銀行の第四代総裁であった。
また父系に劣らず、驚くべきは小野英輔の妻である磯子の家系だ。
日本経済史で旧4代財閥といえば、三井、三菱、住友、安田であるが、このうち、安田財閥は安田善次郎の創業によるものだ。
安田善次郎は富山県富山市出身で父親は下級武士だった。奉公人として江戸に出てしばらくたってから、両替商に勤めることになる。
やがて安田銀行(後の富士銀行)を設立するが、この安田銀行は富士銀行を経て現在のみずほフィナンシャル・グループに発展し、損保会社は損保ジャパンに、生保会社は明治安田生命保険、そして不動産分野では東京建物に発展して行く。
この安田善次郎ですが、不幸にも1921年暗殺されてしまった。
この善次郎の二女暉子(てる)と結婚したのが伊臣貞太郎ですが、結婚と同時に安田家の養子となり安田善三郎と名のることになる。この善三郎は税金の支払実績から貴族院議員となった。
安田善三郎と暉子の子が、オノ・ヨーコの母・磯子になる。
つまり、オノ・ヨーコは安田財閥創始者・安田善次郎のひ孫にあたることになります。
洋子は2歳のとき、父の英輔が暮らすサンフランシスコへ転居したが、2年後には母と日本へ帰国し、幼少期は安田家の鎌倉の別荘で暮らした。
洋子には、弟(啓輔)と、妹(節子)がいて、この二人は後の話しになるが、弟の小野啓輔は三菱商事に勤務するようになり、妹の小野節子のほうは世界銀行に長年勤めたのち彫刻家になった。
学業としては、自由学園幼児生活団(幼稚園)、次いで学習院初等科へ通い、父の転勤に伴いニューヨークに転居しロングアイランドのパブリックスクールに通った。日本へ再び帰国した後、啓明学園初等学校、青南小学校に編入、学習院女子中・高等科を経て、1952年に学習院大学の哲学科に入学。1953年、20歳のときに家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外のスカースデール (ニューヨーク)(英語版)に移り住み、(学習院大学のほうは中退し)サラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。とまあ、凡人離れというか、浮世離れした華麗なる人生を歩んでいたと言ってもよいだろう!!
父・小野英輔は銀行家に転身する前はもともとピアニストでした。父の尊敬する音楽家は、バッハとベートーヴェン、そしてブラームスの3B(3人の頭文字から)で、この3大家が父・小野英輔の音楽のすべてでした。ヨーコも幼い頃にピアノのレッスンをはじめさせられていますが、父・英輔が尊敬する3Bの音楽家が演奏カリキュラムのほとんどすべてをしめていました。父・英輔はそれを聴いて満足だったといいます。また、母・磯子も音楽を趣味にしていましたが、父とは真逆で、伝統的な和楽器を好みました。7つか8つもの和楽器を奏すことができたといいます。
つまり、洋子自身も芸術的な素養を幼くして身につけることができたのである。
この小野英輔の父、すなわちオノ・ヨーコの父方の祖父は小野英二郎で元日本興行銀行の第四代総裁であった。
また父系に劣らず、驚くべきは小野英輔の妻である磯子の家系だ。
日本経済史で旧4代財閥といえば、三井、三菱、住友、安田であるが、このうち、安田財閥は安田善次郎の創業によるものだ。
安田善次郎は富山県富山市出身で父親は下級武士だった。奉公人として江戸に出てしばらくたってから、両替商に勤めることになる。
やがて安田銀行(後の富士銀行)を設立するが、この安田銀行は富士銀行を経て現在のみずほフィナンシャル・グループに発展し、損保会社は損保ジャパンに、生保会社は明治安田生命保険、そして不動産分野では東京建物に発展して行く。
この安田善次郎ですが、不幸にも1921年暗殺されてしまった。
この善次郎の二女暉子(てる)と結婚したのが伊臣貞太郎ですが、結婚と同時に安田家の養子となり安田善三郎と名のることになる。この善三郎は税金の支払実績から貴族院議員となった。
安田善三郎と暉子の子が、オノ・ヨーコの母・磯子になる。
つまり、オノ・ヨーコは安田財閥創始者・安田善次郎のひ孫にあたることになります。
洋子は2歳のとき、父の英輔が暮らすサンフランシスコへ転居したが、2年後には母と日本へ帰国し、幼少期は安田家の鎌倉の別荘で暮らした。
洋子には、弟(啓輔)と、妹(節子)がいて、この二人は後の話しになるが、弟の小野啓輔は三菱商事に勤務するようになり、妹の小野節子のほうは世界銀行に長年勤めたのち彫刻家になった。
学業としては、自由学園幼児生活団(幼稚園)、次いで学習院初等科へ通い、父の転勤に伴いニューヨークに転居しロングアイランドのパブリックスクールに通った。日本へ再び帰国した後、啓明学園初等学校、青南小学校に編入、学習院女子中・高等科を経て、1952年に学習院大学の哲学科に入学。1953年、20歳のときに家族と共に父親の赴任先であるニューヨーク郊外のスカースデール (ニューヨーク)(英語版)に移り住み、(学習院大学のほうは中退し)サラ・ローレンス大学に入学、音楽と詩を学ぶ。とまあ、凡人離れというか、浮世離れした華麗なる人生を歩んでいたと言ってもよいだろう!!
洋子は人生で3回の結婚!!
1956年サラ・ローレンス大学在学中、作曲家の一柳慧と一度目の結婚をする。
この一柳慧はジュリアード音楽院を卒業した天才音楽家といわれ、日本音楽会の発展に貢献している。2008年には文化功労者として表彰されている。
洋子は同大学を退学し、前衛芸術の活動を開始する。1959年、ニューヨークを活動拠点とする前衛芸術集団 Fluxus フルクサスとともに活動を行う。床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアル・アート作品『踏まれるための絵画』("Painting To Be Stepped On")は当時の代表作のひとつ。また、カーネギー・ホールで前衛音楽 avant-garde music のパフォーマンスを行う。
「日本を拠点にして活躍しよう」との目論見のもと、1962年から1964年まで日本に帰国し、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『カット・ピース』("Cut Piece")や、言葉によるコンセプチュアル・アート作品集『グレープフルーツ』("Grapefruit")などの作品を発表した。しかし、当時の日本人は、前衛芸術というものに慣れておらず、評価は概して低かった。また、評論家にも批判され、芸術活動で批判を受けるのは初めてのことで、辛い日々を過ごしノイローゼぎみになる。
辛い日々を過ごす中、ジャズミュージシャンで映像作家のアンソニー・コックス(英語版)と出会い、救われ、1962年の11月28日にコックスと結婚しようとする。しかし、一柳との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に結婚は「無効」とされてしまう。同年の6月6日に再度結婚をする。1963年8月8日、娘キョーコ・チャン・コックスをもうける。1964年に洋子は、評価してくれる人がほとんどいない東京を去り、洋子を理解してくれる人々がいるニューヨークに戻り、そこでの活動を再開する。1966年にロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、それを契機として活動の場をロンドンに移した。その時期にジョン・レノンと関係を持ちはじめる。コックスとは1969年2月2日に離婚した。ヨーコはジョンとの問題では、夫以外の男と関係を持ち、コックスや実娘キョーコを苦しめた。しかしながら、コックスからキョーコをも引き取ろうとし、法廷闘争までをも行った。コックスはその混乱の渦中で、事件を起こし逮捕されるような事態に陥った。当時5歳の娘キョーコは、洋子の自己中心的で、人の道を踏み外した行動が、父を苦しめていることがよく理解できた。愛情深い父を守ろうと、洋子に対し「あなたにはもう会いたくない」と宣言し洋子のもとを去った。そして父と娘は共に洋子と連絡を絶った。親娘は世間に本名を隠し暮らすようになった。結果、洋子は娘と全く会えなくなってしまった。程なくヨーコは娘の親権を放棄した。母と娘は全く会えないまま、長い長い年月が過ぎ去った。そして、キョーコが20代になり子供を産む時になり、洋子に連絡を取ってきてくれた。それは、キョーコが「子供におばあちゃんとの接点がないのは不憫だ」と思ったからだという。こうした経緯もあり、洋子が娘のことを公に語れなかった年月があまりにも長かったので、人々には洋子の子供はショーンのみと勘違いされがちである。
この一柳慧はジュリアード音楽院を卒業した天才音楽家といわれ、日本音楽会の発展に貢献している。2008年には文化功労者として表彰されている。
洋子は同大学を退学し、前衛芸術の活動を開始する。1959年、ニューヨークを活動拠点とする前衛芸術集団 Fluxus フルクサスとともに活動を行う。床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアル・アート作品『踏まれるための絵画』("Painting To Be Stepped On")は当時の代表作のひとつ。また、カーネギー・ホールで前衛音楽 avant-garde music のパフォーマンスを行う。
「日本を拠点にして活躍しよう」との目論見のもと、1962年から1964年まで日本に帰国し、観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『カット・ピース』("Cut Piece")や、言葉によるコンセプチュアル・アート作品集『グレープフルーツ』("Grapefruit")などの作品を発表した。しかし、当時の日本人は、前衛芸術というものに慣れておらず、評価は概して低かった。また、評論家にも批判され、芸術活動で批判を受けるのは初めてのことで、辛い日々を過ごしノイローゼぎみになる。
辛い日々を過ごす中、ジャズミュージシャンで映像作家のアンソニー・コックス(英語版)と出会い、救われ、1962年の11月28日にコックスと結婚しようとする。しかし、一柳との離婚が法的に成立しておらず、1963年3月1日に結婚は「無効」とされてしまう。同年の6月6日に再度結婚をする。1963年8月8日、娘キョーコ・チャン・コックスをもうける。1964年に洋子は、評価してくれる人がほとんどいない東京を去り、洋子を理解してくれる人々がいるニューヨークに戻り、そこでの活動を再開する。1966年にロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、それを契機として活動の場をロンドンに移した。その時期にジョン・レノンと関係を持ちはじめる。コックスとは1969年2月2日に離婚した。ヨーコはジョンとの問題では、夫以外の男と関係を持ち、コックスや実娘キョーコを苦しめた。しかしながら、コックスからキョーコをも引き取ろうとし、法廷闘争までをも行った。コックスはその混乱の渦中で、事件を起こし逮捕されるような事態に陥った。当時5歳の娘キョーコは、洋子の自己中心的で、人の道を踏み外した行動が、父を苦しめていることがよく理解できた。愛情深い父を守ろうと、洋子に対し「あなたにはもう会いたくない」と宣言し洋子のもとを去った。そして父と娘は共に洋子と連絡を絶った。親娘は世間に本名を隠し暮らすようになった。結果、洋子は娘と全く会えなくなってしまった。程なくヨーコは娘の親権を放棄した。母と娘は全く会えないまま、長い長い年月が過ぎ去った。そして、キョーコが20代になり子供を産む時になり、洋子に連絡を取ってきてくれた。それは、キョーコが「子供におばあちゃんとの接点がないのは不憫だ」と思ったからだという。こうした経緯もあり、洋子が娘のことを公に語れなかった年月があまりにも長かったので、人々には洋子の子供はショーンのみと勘違いされがちである。
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ジョン・レノンとの出会い
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ジョン・レノンとの出会いは、1966年11月9日のことであった。ロンドンのインディカ・ギャラリーでのオノの個展『未完成の絵画とオブジェ』("Unfinished Paintings and Objects")の開催前日のプレビュー・ショーに訪れたレノンは、そこに展示されていた作品「天井の絵」("Ceiling Painting (YES Painting)")に惹かれた。それは部屋の中央に白い脚立が置かれており、観客はそれを昇り天井からぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品だった。レノンは当時を回想し「もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」と後に語っている。
1967年、レノンのサポートにより、ロンドンのリッスン・ギャラリー(英語版)で、すべてのオブジェが半分の形で展示された個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』("Half-A-Wind Show")を行う。二人はその後、ともに前衛的な音楽活動やパフォーマンスを行うようになり、1968年に前衛アルバム『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』("Unfinished Music No.1: Two Virgins")や前衛パフォーマンス『ドングリ・イヴェント』("Acorn Event") を発表。
洋子とジョンは、1969年3月20日にジブラルタルで結婚。洋子にとっては3回目の結婚だった。ジョン・レノンには前妻がいたので、W不倫の状態が続いていたようなものだった。
当時、激化するベトナム戦争に反対して、平和イベント『ベッド・イン』("Bed-in")や『ウォー・イズ・オーヴァー』("War Is Over, If you want it")ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」("Love and Peace")の活動を展開した。
なお、米国では、「夫婦同姓方式」「夫婦別姓方式」「ミドルネーム方式」のいずれを選ぶことも可能で、オノはミドルネームに「オノ」を入れる形式を選んだ。そのため、本名はヨーコ・オノ・レノン、となった。ただし、通称としては、以後も「オノ」を使い続けている。また、オノの二人の息子も、ミドルネームに「オノ」を入れている。
1967年、レノンのサポートにより、ロンドンのリッスン・ギャラリー(英語版)で、すべてのオブジェが半分の形で展示された個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』("Half-A-Wind Show")を行う。二人はその後、ともに前衛的な音楽活動やパフォーマンスを行うようになり、1968年に前衛アルバム『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』("Unfinished Music No.1: Two Virgins")や前衛パフォーマンス『ドングリ・イヴェント』("Acorn Event") を発表。
洋子とジョンは、1969年3月20日にジブラルタルで結婚。洋子にとっては3回目の結婚だった。ジョン・レノンには前妻がいたので、W不倫の状態が続いていたようなものだった。
当時、激化するベトナム戦争に反対して、平和イベント『ベッド・イン』("Bed-in")や『ウォー・イズ・オーヴァー』("War Is Over, If you want it")ポスター・キャンペーンなどの独自の「愛と平和」("Love and Peace")の活動を展開した。
なお、米国では、「夫婦同姓方式」「夫婦別姓方式」「ミドルネーム方式」のいずれを選ぶことも可能で、オノはミドルネームに「オノ」を入れる形式を選んだ。そのため、本名はヨーコ・オノ・レノン、となった。ただし、通称としては、以後も「オノ」を使い続けている。また、オノの二人の息子も、ミドルネームに「オノ」を入れている。
ビートルズ解散の原因は小野洋子の企みか??
ビートルズ解散の原因について、本当に多くの音楽評論家や ビートルズ研究家・ビートルズファンがいろんなことを言っていて、書かれた書籍の数も数万冊に及ぶでしょうが、先に結論から言えば、そんなもの本人たちにしか解らない・・・もしかして、本人たちでもよく解らないのではないでしょうか??
色々な原因が重なり合って、いつのまにか「解散」という方向に進んで言ったのではないでしょうか?
1966年8月にビートルズがコンサート活動を辞めたときに、メンバーのなかでは「解散」という言葉がつぶやかれていました。6月に来日したときに、ホテルでの缶詰生活に嫌気がさして、ジョンが「もううんざりだ!ビートルズは解散だ!」と叫んでいたそうだ。またジョンの「ビートルズはイエス・キリストより人気がある」発言で、アメリカで命を狙われそうになったことで、ジョンは、「ビートルズでない生き方」を模索し始めていたようだ。
またジョージも最後のコンサートが終わったあと、「よかった。これでボクは明日からビートルズではなくなる」と発言している。
ポールだけは、コンサートを辞めることに反対していたそうですが・・・。
このように、ビートルズは66年頃から、メンバー間の意識のずれや、方向性の違いというものが現れ始めていた。そこに決定的な影響をもたらしたのが、67年8月のマネージャー・ブライアン・エプスタインの死です。 バンドのマネージメントをしていた人間がいなくなり、また4人がそれぞれアーティストとして成熟し、方向性の違いも顕著になってきたわけですから、バンドを維持すること自体が大変だったのだ。そして、大きなきっかけのひとつになったのは、アラン・クラインという悪徳マネージャー(アメリカ人)がジョンに取り入って、ビートルズのマネージャーになったことがポールには許せなかった。
アルバム「ザ・ビートルズ」(通称「ホワイトアルバム」を聴くと、ジョン・ポール・ジョージの音楽性が全然違うということに気がつくと思います。実際、アレンジをめぐってジョンとポールの意見が衝突し、ジョンのパートとポールのパートを別々に録音することがよくあったそうです。「オブラディ・オブラダ」のイントロは、ピアノの強打で始まりますが、あれはポールの細かい注文に嫌気がさしたジョンが、「これでいいんだろっ!」とばかりに、鍵盤をぶったたいたテイクが採用されたとのことです。
こういう険悪な雰囲気に嫌気がさして、リンゴは一時期がバンドを辞めて旅に出たし、ジョージ・マーティンも突然休暇を取っていなくなるということが起きていました。
小野洋子とバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女をバンドのセッションに連れて行ったときのことのみであったが、そこでは彼女は曲について提案したり批判したりしたそうだ。さらに彼女はジョンに対して彼とグループの関係に対する批判をささやき、ソロとしての活動を促したという。ジョン・レノンの友人であるピート・ショットンは、「『ザ・ビートルズ』のレコーディング時にジョンがヨーコを連れてきたことによって(「グループの仕事場にパートナーを連れてこない」という不文律をジョンが破った)ジョンと他のメンバーの間に緊張感が高まってしまった」と回想している。それが解散の引き金になってしまったと報道もあった。しかし、洋子を擁護する訳ではないが、洋子がなぜスタジオにいたのか? 答えは簡単だ。ジョンが招待したからであり、また他の3人も認めていたからである。
ではなぜ、認めていたのか? ほかの3人も、自分の妻や恋人をスタジオに呼んでいたからです。
ジョージの妻パティも、リンゴの妻モーリンもスタジオに招待されて、「バースデイ」という曲のバックコーラスを担当していた。後にポールの妻となるリンダも「レットイットビー」のセッションに連れ子のヘザーを伴って参加しているし、ルーフトップコンサートには、洋子の隣にモーリンも座っていた。
66年までは、たしかに ビートルズの妻や恋人たちがスタジオに来ることはありませんでしたが、なぜ68年になって、妻や恋人たちが来るようになったのか。理由は、スタジオの険悪な雰囲気を少しでも和らげるためでしょうか?(学校の父兄参観に似たような状況でしょうか?)
でもなぜ洋子だけが、悪く言われるのでしょうか? 洋子がジョンと同じくアーティストであり、ジョンと一体となって活動していたことと彼女が東洋人=日本人だったということも大きいと思もわれる。「東洋の女が、ジョンを炊きつけ、ビートルズを解散させた」というマスコミのバッシングも相当のものでした。
色々な原因が重なり合って、いつのまにか「解散」という方向に進んで言ったのではないでしょうか?
1966年8月にビートルズがコンサート活動を辞めたときに、メンバーのなかでは「解散」という言葉がつぶやかれていました。6月に来日したときに、ホテルでの缶詰生活に嫌気がさして、ジョンが「もううんざりだ!ビートルズは解散だ!」と叫んでいたそうだ。またジョンの「ビートルズはイエス・キリストより人気がある」発言で、アメリカで命を狙われそうになったことで、ジョンは、「ビートルズでない生き方」を模索し始めていたようだ。
またジョージも最後のコンサートが終わったあと、「よかった。これでボクは明日からビートルズではなくなる」と発言している。
ポールだけは、コンサートを辞めることに反対していたそうですが・・・。
このように、ビートルズは66年頃から、メンバー間の意識のずれや、方向性の違いというものが現れ始めていた。そこに決定的な影響をもたらしたのが、67年8月のマネージャー・ブライアン・エプスタインの死です。 バンドのマネージメントをしていた人間がいなくなり、また4人がそれぞれアーティストとして成熟し、方向性の違いも顕著になってきたわけですから、バンドを維持すること自体が大変だったのだ。そして、大きなきっかけのひとつになったのは、アラン・クラインという悪徳マネージャー(アメリカ人)がジョンに取り入って、ビートルズのマネージャーになったことがポールには許せなかった。
アルバム「ザ・ビートルズ」(通称「ホワイトアルバム」を聴くと、ジョン・ポール・ジョージの音楽性が全然違うということに気がつくと思います。実際、アレンジをめぐってジョンとポールの意見が衝突し、ジョンのパートとポールのパートを別々に録音することがよくあったそうです。「オブラディ・オブラダ」のイントロは、ピアノの強打で始まりますが、あれはポールの細かい注文に嫌気がさしたジョンが、「これでいいんだろっ!」とばかりに、鍵盤をぶったたいたテイクが採用されたとのことです。
こういう険悪な雰囲気に嫌気がさして、リンゴは一時期がバンドを辞めて旅に出たし、ジョージ・マーティンも突然休暇を取っていなくなるということが起きていました。
小野洋子とバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女をバンドのセッションに連れて行ったときのことのみであったが、そこでは彼女は曲について提案したり批判したりしたそうだ。さらに彼女はジョンに対して彼とグループの関係に対する批判をささやき、ソロとしての活動を促したという。ジョン・レノンの友人であるピート・ショットンは、「『ザ・ビートルズ』のレコーディング時にジョンがヨーコを連れてきたことによって(「グループの仕事場にパートナーを連れてこない」という不文律をジョンが破った)ジョンと他のメンバーの間に緊張感が高まってしまった」と回想している。それが解散の引き金になってしまったと報道もあった。しかし、洋子を擁護する訳ではないが、洋子がなぜスタジオにいたのか? 答えは簡単だ。ジョンが招待したからであり、また他の3人も認めていたからである。
ではなぜ、認めていたのか? ほかの3人も、自分の妻や恋人をスタジオに呼んでいたからです。
ジョージの妻パティも、リンゴの妻モーリンもスタジオに招待されて、「バースデイ」という曲のバックコーラスを担当していた。後にポールの妻となるリンダも「レットイットビー」のセッションに連れ子のヘザーを伴って参加しているし、ルーフトップコンサートには、洋子の隣にモーリンも座っていた。
66年までは、たしかに ビートルズの妻や恋人たちがスタジオに来ることはありませんでしたが、なぜ68年になって、妻や恋人たちが来るようになったのか。理由は、スタジオの険悪な雰囲気を少しでも和らげるためでしょうか?(学校の父兄参観に似たような状況でしょうか?)
でもなぜ洋子だけが、悪く言われるのでしょうか? 洋子がジョンと同じくアーティストであり、ジョンと一体となって活動していたことと彼女が東洋人=日本人だったということも大きいと思もわれる。「東洋の女が、ジョンを炊きつけ、ビートルズを解散させた」というマスコミのバッシングも相当のものでした。
The Beatles - Ob-La-Di, Ob-La-Da
最初のピアノの鍵盤を叩く音が印象深いです!!
via www.youtube.com
The Beatles - Let It Be - Let It Be (STEREO REMASTERED)
ビートルズ財後の曲です。 Let It Beの言葉が意味深ですね!!!
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ビートルズ解散後、洋子とジョンは社会運動に傾斜
1970年にビートルズは解散したが、1971年9月に二人は新しい活動の場を求めてロンドンからニューヨークに移り住む。アルバム『イマジン』("Imagine")の発表直前のことだった。
同年10月にニューヨークのエバーソン美術館で洋子の芸術活動を集大成した個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』("This Is Not Here")を行なう。一方、二人はニューヨークの前衛芸術家、反戦運動家、黒人解放運動家、女性解放運動家などと交流を深め、急進的な政治運動に傾斜していった。
1971年から1972年にかけて、二人は反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモ行進へ参加、また、刑務所で起きた暴動の被害者救済コンサートや知的障害を持つ子どもの救済コンサートなどにも積極的に出演した。
1973年4月、二人は架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言のイベントを行うが、掲げた理想は、度重なる国外退去命令で挫折する。そのようななか、1973年10月、レノンはロサンゼルスに移り住み、二人は別居する。後に、レノンはこの期間を「失われた週末」と述懐している。この別居期間中に洋子は、アルバム『無限の大宇宙』("Approximately Infinite Universe")とアルバム『空間の感触』("Feeling the Space")の2枚のフェミニスト・ロック・アルバムを発表。また、女性解放を主張し日本語で歌唱しているシングル・レコード『女性上位万歳!』が日本で発売された。
1974年11月、レノンがニューヨークで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに出演したことがきっかけになって、洋子と再会。二人は翌年、1975年1月に再び生活を共にすることになる。
同年10月にニューヨークのエバーソン美術館で洋子の芸術活動を集大成した個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』("This Is Not Here")を行なう。一方、二人はニューヨークの前衛芸術家、反戦運動家、黒人解放運動家、女性解放運動家などと交流を深め、急進的な政治運動に傾斜していった。
1971年から1972年にかけて、二人は反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモ行進へ参加、また、刑務所で起きた暴動の被害者救済コンサートや知的障害を持つ子どもの救済コンサートなどにも積極的に出演した。
1973年4月、二人は架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言のイベントを行うが、掲げた理想は、度重なる国外退去命令で挫折する。そのようななか、1973年10月、レノンはロサンゼルスに移り住み、二人は別居する。後に、レノンはこの期間を「失われた週末」と述懐している。この別居期間中に洋子は、アルバム『無限の大宇宙』("Approximately Infinite Universe")とアルバム『空間の感触』("Feeling the Space")の2枚のフェミニスト・ロック・アルバムを発表。また、女性解放を主張し日本語で歌唱しているシングル・レコード『女性上位万歳!』が日本で発売された。
1974年11月、レノンがニューヨークで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに出演したことがきっかけになって、洋子と再会。二人は翌年、1975年1月に再び生活を共にすることになる。