1967年初夏~1969年春に巻き起こった「グループサウンズブーム」
60年代後半、ビートルズ人気が日本を席巻する中で、音楽業界で一つの潮流が生まれます。グループサウンズです。リバプールサウンドとマージビートを歌謡曲的に解釈した独特な音は、古の時代より異国の文化を我流で換骨奪胎してきた日本人の感性にピタリとハマり、“本家”に勝るとも劣らないブームを巻き起こしたのです。
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ジャズ喫茶から発生したこのムーブメントは、1967年初夏~1969年春にかけて沸点を迎え、ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース、ザ・スパイダース、ブルー・コメッツなど、実に100近い同ジャンルのグループが誕生しました。
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グループサウンズブーム末期に登場したバンド・オックス
中でも異彩を放っていたバンドが、オックスです。婦人下着メーカー「シルバー・オックス」から着想を得て名付けられた同グループがシングル『ガール・フレンド』でメジャーデビューしたのは、1968年5月5日のこと。タイミングとしては、グループサウンズブームもひと段落して、収束に向かい始めた時期でした。
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もはや「グループサウンズ」の看板だけでは通用し得なかった当時の状況もあってか、彼らは明確なコンセプトをもって売り出されます。どんなコンセプトかといえば、ビジュアルを見れば一目瞭然。フリフリがついた襟とおかっぱ気味のサラサラヘアー…。そう、オックスは少女マンガライクでベッタベタの「王子様ルック」によって、他のGSグループとの差別化が図られたのです。
ガール・フレンド(オックス)
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そんな“GSの王子様”タイガースのジュリー(沢田研二)よりも、さらに王子様っぽかったオックスの初期メンバーは、福井利男(ベース兼リーダー)、岩田裕二(ドラムス)、岡田志郎(ギター)、野口ヒデト(ボーカル)、赤松愛(オルガン兼ボーカル)の5名。特にヒデトは、当時人気絶頂にあったジュリー、ショーケンと並び称されるほど、絶大な支持を集めるトップアイドルでした。
失神パフォーマンスが話題を呼ぶ
愛らしいルックスもさることながら、彼らの人気を不動のものにしたのが、舞台上で失神する過激なパフォーマンスでした。もちろん、あくまでコンサートを盛り上げるための演出であって、本人たちの心身は至って正常なのですが、これを見た観客までもがつられて興奮&失神したものだから、問題視されるようになります。
中でも失神曲として知られていたのが、ローリング・ストーンズの『テル・ミー』とオリジナル楽曲の『オー・ビーバー』。2曲を演奏するとき、メンバーはステージ上でとかく激しく動き回り、ボーカルのヒデトは半狂乱の後に倒れこみ、赤松愛は飛び乗ったオルガンから転がり落ちるように卒倒…。こんな調子でコンサートを繰り返すものだから、いつしかオックスはマスコミから「失神バンド」と定義づけられるようになったのです。
中でも失神曲として知られていたのが、ローリング・ストーンズの『テル・ミー』とオリジナル楽曲の『オー・ビーバー』。2曲を演奏するとき、メンバーはステージ上でとかく激しく動き回り、ボーカルのヒデトは半狂乱の後に倒れこみ、赤松愛は飛び乗ったオルガンから転がり落ちるように卒倒…。こんな調子でコンサートを繰り返すものだから、いつしかオックスはマスコミから「失神バンド」と定義づけられるようになったのです。
“失神曲”テル・ミー
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もっとも多くの失神者を出したのが、1968年11月10日に渋谷公会堂で行われたライブ。この日は30人が失神し、15人が病院へ搬送されるという過去最大の“被害者”を出してしまいます。これまで彼らの過激なパフォーマンスに白い目を向けてきた良識派の大人たちは、それみたことかとオックスバッシングを開始。彼らのショーも行くことを禁じる学校が現れたり、PTAと地婦連の抗議活動により会場の貸し渋りが増えたりしたそうです。
「ジョン・レノンの弟子になる」と言い残し、赤松が失踪
間からの批判を受けて、オックスの“失神”は、さすがに自粛化傾向となります。これにより勢いを失ったグループでしたが、その後、さらなる追い討ちが待っていました。土浦市民会館での公演を翌日に控えた1969年5月5日、メンバーの一人・赤松愛が突如失踪し、そのまま脱退してしまったのです。
理由は「ジョン・レノンの弟子になる」というもの。グループは急きょ、別のGSバンドでデビュー予定だった田浦久幸をメンバーに加えて再出発。しかし、ヒデトと並ぶ人気メンバーだった赤松を失った痛手はあまりにも大きく、加えて、この頃にはGSブームもすっかり下火になり、時代はフォークソングへと変遷しようとしていたため、もはや、オックスの居場所はどこにもありませんでした。
ちなみに赤松は、ジョンに会うこともなく、ロンドンでニート生活を送った後、しれっと日本に帰って来て、1970年6月3日~26日まで、新国劇主催の舞台劇『あしたのジョー』に出演していたそうです。
理由は「ジョン・レノンの弟子になる」というもの。グループは急きょ、別のGSバンドでデビュー予定だった田浦久幸をメンバーに加えて再出発。しかし、ヒデトと並ぶ人気メンバーだった赤松を失った痛手はあまりにも大きく、加えて、この頃にはGSブームもすっかり下火になり、時代はフォークソングへと変遷しようとしていたため、もはや、オックスの居場所はどこにもありませんでした。
ちなみに赤松は、ジョンに会うこともなく、ロンドンでニート生活を送った後、しれっと日本に帰って来て、1970年6月3日~26日まで、新国劇主催の舞台劇『あしたのジョー』に出演していたそうです。
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結局人気が回復することはなく、1971年5月29日~31日の池袋ACB(ジャズ喫茶)での公演をもって、約3年に及ぶ活動に終止符を打ったオックス。王子様ルックと失神パフォーマンスという特異性をもったGSブーム末期のグループとして、今後も語り継がれていくことでしょう。
(こじへい)
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