長嶋一茂(ながしま かずしげ) プロフィール
1966年1月26日生まれ。東京都大田区田園調布出身。
4人兄弟の長男。父親に長嶋茂雄をもち、兄弟にレーシングドライバーで弟の長島正興、妹にキャスターの長島三奈がいる。
現役時代は主に内野手(父親と同じ三塁手)。
4人兄弟の長男。父親に長嶋茂雄をもち、兄弟にレーシングドライバーで弟の長島正興、妹にキャスターの長島三奈がいる。
現役時代は主に内野手(父親と同じ三塁手)。
【個人データ】
・身長:181 cm
・体重:90 kg
・投球・打席:右投右打
【在籍チーム】
・ヤクルトスワローズ (1988 - 1992)
・読売ジャイアンツ (1993 - 1996)
・身長:181 cm
・体重:90 kg
・投球・打席:右投右打
【在籍チーム】
・ヤクルトスワローズ (1988 - 1992)
・読売ジャイアンツ (1993 - 1996)
プロ入りまで
小学生から野球を始める。しかし、上手くなく途中で辞めてしまった。
田園調布中学校、群馬県吾妻郡六合村(現:中之条町)にある白根開善学校中等部で中学時代を過ごしている(ただし、ごく短期間で退寮)。
高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格したが「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現・立教新座高等学校)に進学した。
田園調布中学校、群馬県吾妻郡六合村(現:中之条町)にある白根開善学校中等部で中学時代を過ごしている(ただし、ごく短期間で退寮)。
高校受験では桐蔭学園高等学校にも合格したが「父親と同じ立教で野球をやりたい」と、立教高等学校(現・立教新座高等学校)に進学した。
高校から再び野球を始め、3年生の時に甲子園埼玉県予選の準決勝まで進出。しかし、所沢商業高校にサヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逃した。妹の三奈はこの試合を観戦し、負けたことで号泣したそうだ。
その後、父・茂雄と同じく立教大学に進学。
所属した立教大学硬式野球部では東京六大学リーグ通算101試合出場し、382打数86安打、打率.225、11本塁打、54打点の成績を残している。
4年生の時に2季連続ベストナイン(三塁手)に選ばれた。また、大学時代は代表にも選ばれたことがある。高校・大学の1年後輩には矢作公一がいた。
その後、父・茂雄と同じく立教大学に進学。
所属した立教大学硬式野球部では東京六大学リーグ通算101試合出場し、382打数86安打、打率.225、11本塁打、54打点の成績を残している。
4年生の時に2季連続ベストナイン(三塁手)に選ばれた。また、大学時代は代表にも選ばれたことがある。高校・大学の1年後輩には矢作公一がいた。
ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団
1987年のドラフト会議でヤクルトワローズに1位指名を受け、入団する。
この時のドラフトでは、大洋ホエールズと競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得している。
契約金8000万円、年俸840万円(金額は推定)で入団合意に至った。
このドラフト前日まで父・茂雄の古巣巨人も1位指名を検討していたが、結局回避した。
当時ヤクルトの監督だった関根潤三は著書の中で「一茂のドラフト指名は僕の意向が強く働いた。六大学リーグでプレーする一茂を見に行って粗削りだけどものはいい。こりゃ素晴らしいプレーヤーになると思った」と記している。
この時のドラフトでは、大洋ホエールズと競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得している。
契約金8000万円、年俸840万円(金額は推定)で入団合意に至った。
このドラフト前日まで父・茂雄の古巣巨人も1位指名を検討していたが、結局回避した。
当時ヤクルトの監督だった関根潤三は著書の中で「一茂のドラフト指名は僕の意向が強く働いた。六大学リーグでプレーする一茂を見に行って粗削りだけどものはいい。こりゃ素晴らしいプレーヤーになると思った」と記している。
1988年、神宮球場でプロ初安打がホームランというインパクトを残す。この時の対戦投手は、巨人にメジャーリーグから鳴り物入りで入団したビル・ガリクソンだった。
ただ、このホームランに関して一茂は、自身の著書「三流」で「入団直後からプロのスピードについて行けず、どうしようかと思った」、「それこそガリクソンの球も全然見えなくて、適当に振った」と記している。
1990年に野村克也がヤクルト監督就任した。以降、出場機会が減少。
野村は「ウチのお荷物。親父(茂雄)も俺が嫌いだから、恐らく家で親父の前で俺の悪口ばかり言ってただろう」と語っている。
ただ、このホームランに関して一茂は、自身の著書「三流」で「入団直後からプロのスピードについて行けず、どうしようかと思った」、「それこそガリクソンの球も全然見えなくて、適当に振った」と記している。
1990年に野村克也がヤクルト監督就任した。以降、出場機会が減少。
野村は「ウチのお荷物。親父(茂雄)も俺が嫌いだから、恐らく家で親父の前で俺の悪口ばかり言ってただろう」と語っている。
長嶋一茂 プロ初ホームラン
via www.youtube.com
1991年は、6月初旬からスタメンで起用され、6月9日の広島戦では3安打5打点の活躍。しかも、その試合を皮切りに、チームは球団新記録となる12連勝の快進撃を続けることになる。
この12試合中の長嶋の成績は、打率.282、2本塁打14打点OPS.934と、一定の成績を残し、ついに才能が開花したと言われるが、13連勝を狙った6月26日の巨人戦では、3点リードの9回裏にまずい守備を連発して逆転サヨナラ負けを喫したため、スポーツ紙では、長嶋に始まり長嶋で終わった12連勝と呼ばれた。
1992年は、マイナーリーグ・1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学したため出場機会がなく、チームの14年ぶりの優勝には貢献できなかった。
この12試合中の長嶋の成績は、打率.282、2本塁打14打点OPS.934と、一定の成績を残し、ついに才能が開花したと言われるが、13連勝を狙った6月26日の巨人戦では、3点リードの9回裏にまずい守備を連発して逆転サヨナラ負けを喫したため、スポーツ紙では、長嶋に始まり長嶋で終わった12連勝と呼ばれた。
1992年は、マイナーリーグ・1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学したため出場機会がなく、チームの14年ぶりの優勝には貢献できなかった。
父・茂雄が巨人監督に復帰した際に、巨人へ移籍
1993年、父・茂雄が1980年以来となる巨人の監督に復帰。
この時、一茂も巨人へ金銭トレードで移籍した。
ヤクルト・野村克也監督は「長嶋さんから欲しいと言われたら仕方がない」とコメントしているが、本当は厄介払いができてホッとしていたという。
後に元首相の森喜朗がオーナーの桑原潤になぜ一茂を巨人に出したのか聞いたところ、「もうせいせいした。実際は使い物にならなかったがプロ野球の大選手のご子息だから、そう無下に扱うわけにもいかないので、もうまいってた。その時に、ジャイアンツから、どういうわけか一茂をくれないかと言ってきたんで、もう熨斗を付けて差し上げました」と答えたという。
そうした周囲の思惑をよそに一茂は、キャンプから外野の練習を行い、開幕戦は6番・レフトでスタメンを勝ち取っている。同年の古巣ヤクルト戦では、原辰徳との守備交代で、「4番、サード長嶋」がコールされた。
この時、一茂も巨人へ金銭トレードで移籍した。
ヤクルト・野村克也監督は「長嶋さんから欲しいと言われたら仕方がない」とコメントしているが、本当は厄介払いができてホッとしていたという。
後に元首相の森喜朗がオーナーの桑原潤になぜ一茂を巨人に出したのか聞いたところ、「もうせいせいした。実際は使い物にならなかったがプロ野球の大選手のご子息だから、そう無下に扱うわけにもいかないので、もうまいってた。その時に、ジャイアンツから、どういうわけか一茂をくれないかと言ってきたんで、もう熨斗を付けて差し上げました」と答えたという。
そうした周囲の思惑をよそに一茂は、キャンプから外野の練習を行い、開幕戦は6番・レフトでスタメンを勝ち取っている。同年の古巣ヤクルト戦では、原辰徳との守備交代で、「4番、サード長嶋」がコールされた。
4番 サード 長嶋一茂
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1994年シーズンは46試合に出場。ただ、日本シリーズではベンチメンバーで、試合に出場することはなかった。翌1995年は右ひじの故障で一軍出場はなかった。
1996年は不振のジェフ・マントがスタメンを外されると積極的に起用され、低打率ながら3本塁打を記録。しかし、当時の守備コーチ土井正三からバント練習を厳しく指導されたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、球団から罰金50万円と二軍降格に加え、出場停止処分を受けた。
1996年は不振のジェフ・マントがスタメンを外されると積極的に起用され、低打率ながら3本塁打を記録。しかし、当時の守備コーチ土井正三からバント練習を厳しく指導されたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、球団から罰金50万円と二軍降格に加え、出場停止処分を受けた。
卒業後は1988年のドラフト6位で日本ハムファイターズに入団。1992年現役引退。