トリプルスリーも狙える身体能力の高い選手。高沢秀昭
高沢秀昭の獲得したタイトルや主な表彰と記録
首位打者:1回 (1988年)
ベストナイン:2回 (1984年、1988年)
ゴールデングラブ賞:3回 (1984年、1987年 - 1988年)
オールスターゲームMVP:1回 (1987年 第1戦)
オールスター出場:4回 (1984年、1986年 - 1988年)
ベストナイン:2回 (1984年、1988年)
ゴールデングラブ賞:3回 (1984年、1987年 - 1988年)
オールスターゲームMVP:1回 (1987年 第1戦)
オールスター出場:4回 (1984年、1986年 - 1988年)
高沢秀昭のプレースタイル・・・。
初球から積極的に打ちに行く思い切りの良さがあり、体の軸がぶれないフォームで手が早く出る点を素晴らしい選手である。
狙い球や投手のデータを意識し、打席に立つのではなく、常にストレートにタイミングを合わせてセンターに向けて打つことをイメージしていたという。内角に食い込む球に対して体が開かないので、詰まっていてもゴロにならず、内野の頭を越すことが多かった。
1984年から88年までは、4年連続で二けた盗塁を達成するほど、足の速い選手でもあった。
守備でも、俊足・強肩の選手で右翼手の定位置での外野フライならタッチアップは許してくれないと言われていた。突貫小僧という愛称で、一二塁間を抜けた球を猛ダッシュでキャッチし、正確な送球で三塁ランナーをホームで刺すプレイを得意としていた。
狙い球や投手のデータを意識し、打席に立つのではなく、常にストレートにタイミングを合わせてセンターに向けて打つことをイメージしていたという。内角に食い込む球に対して体が開かないので、詰まっていてもゴロにならず、内野の頭を越すことが多かった。
1984年から88年までは、4年連続で二けた盗塁を達成するほど、足の速い選手でもあった。
守備でも、俊足・強肩の選手で右翼手の定位置での外野フライならタッチアップは許してくれないと言われていた。突貫小僧という愛称で、一二塁間を抜けた球を猛ダッシュでキャッチし、正確な送球で三塁ランナーをホームで刺すプレイを得意としていた。
高沢秀昭のプロに入るまでの軌跡
北海道の今の日高町に生まれ、庫富小学校、門別中学を経て苫小牧工高に進んだ。
高校では、2年、3年の北海道大会でベスト4には進出したが、くしくも全国大会出場とはならなかった。高校卒業後は、王子製紙苫小牧に就職し、社会人野球で活躍。
そんな活躍する中で、ロッテのスカウトに見受けられ、1979年ドラフト2位で指名され、プロに入ることとなる。
高校では、2年、3年の北海道大会でベスト4には進出したが、くしくも全国大会出場とはならなかった。高校卒業後は、王子製紙苫小牧に就職し、社会人野球で活躍。
そんな活躍する中で、ロッテのスカウトに見受けられ、1979年ドラフト2位で指名され、プロに入ることとなる。
プロに入りたては、遊撃手だった!しかし、ここでも故障の壁が・・・
プロ3年目までは遊撃手だったが、故障のため外野手に転向した[3]。1983年は7月21日に2番・中堅手としてスタメンで起用され、残りのシーズンは全試合に外野手として先発出場した[4]。
via www.suruga-ya.jp
1984年は開幕から59試合で無安打だったのが12試合だけと好調な打撃を続けた[4]。5月30日にはパ・リーグでは初となる1試合4二塁打も記録している。しかし、8月11日の円山球場での対西武ライオンズ戦でスティーブ・オンティベロスの打球を好捕した際に外野フェンス(コンクリート製)の角に激突し、右膝蓋骨を粉砕骨折して2ヶ月半にわたって入院した[5][6]。この試合が同年最後の出場となったが、シーズンでは打率.317の成績を残し、初のベストナインとゴールデングラブ賞を受賞している。
1986年は9月29日の対阪急戦で佐藤義則から死球を受け、左手尺骨を骨折して全治1ヶ月となっている[7]。1987年はオープン戦で三塁にスライディングした際に左手薬指の靭帯を痛めた[8]が、開幕までに復帰している[9]。シーズン初の1番打者で起用された5月17日の対日本ハム戦では、4安打2本塁打4打点の活躍を見せた[10]。オールスターゲーム第1戦では小松辰雄からの3ランホームランなどで4打点を挙げ、MVPを受賞した[9]。同年後半は4番打者も務め、チーム最高の打率.292をマークしている。同年は3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。
1988年は4月は打率2割台前半と低迷したが、5月5日に猛打賞で3割を超えるとその後は好調を持続[11]。オールスターゲーム第3戦で史上4人目の先頭打者本塁打を放ち、優秀選手賞を受賞した[12]。9月1日の対南海戦からは不振のビル・マドロックに代わって4番を任された[13]。
また、シーズン終盤には松永浩美と首位打者を激しく争い、近鉄との10.19の試合前の時点で6試合を残して打率.3277となった。一方の松永はロッテとの3試合を残して.3234で、この日のダブルヘッダーでは7打数0安打以下ならば松永に逆転されるという状況で、監督の有藤通世からは「残り4試合あるが、この日でうちは終わりのつもりだから自分で首位打者を取れ[14]」と言われてスタメンで出場した。第1試合では3打数0安打で打率を.3257まで下げ、4打席目には代打を送られている。第2試合では2打席目に安打を放って首位打者を事実上手中にした。さらに8回裏の4打席目に近鉄の優勝を打ち砕く同点ホームランを阿波野秀幸から放っている。これで打率を.3271とし、10回裏の5打席目では代打を送られている。
その後は高沢は打席に立たず、一方の松永は10月22、23日の対ロッテ3連戦に出場し、初戦の1・2打席目にヒットを放って打率を.3263まで上げた。このため、ロッテ投手陣はこの試合の第3打席以降、日本新の11打席連続四球と勝負を避けた[15]。この結果、初の首位打者のタイトルを獲得し、最多安打も記録した。11月の日米野球では1番打者としてスタメンで出場した第2戦で、9回にダグ・ジョーンズから同点タイムリーを放ちチームの引き分けにつながった[16]。オフには1,500万円増の年俸4,500万円+タイトル料300万円(推定)で契約を更改した[17]。
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1989年はキャンプ前に右ふくらはぎ、キャンプ中盤に右肩、開幕直前には右太ももを痛めるなど、故障が相次いだ[18]。さらに7月23日の対近鉄戦で帰塁した際に右足裏側を痛め[19]、8月3日からスタメンを外れ、9月中旬に復帰後は指名打者として出場した。この怪我は捻挫と診断されていたが、オフに手術したところ剥離骨折だったことが判明した[20]。入院中の11月13日に、高橋慶彦・白武佳久・杉本征使との大型トレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍する事が広島側によって発表された[21]。高沢と水上へ連絡する前だったためロッテ側が態度を硬化させたが、その後の調整によりトレードが成立している[21]。
身長178cm、体重78kg
右投げ右打ち
ポジション:遊撃手、外野手
80年代のロッテオリオンズの中心選手として、あの落合博満からも期待されるほどのスター選手だが、調子を上げていくと故障が発生することが何度も続き、知名度は低いが能力は最高クラスの選手とうたわれた選手である。