しくじり先生に出演した野村宏伸へ田原俊彦から激励!
野村は6日に放送されたテレビ朝日系「しくじり先生 俺みたいになるな!!3時間スペシャル」に出演。波瀾(はらん)万丈の半生を振り返った。
また、放送終了後には、歌手の田原俊彦(55)が、ドラマ「教師びんびん物語」などで共演した相棒で、どん底の生活を送っていたことを告白した俳優の野村宏伸(51)に対し、ブログで熱いエールを送った。
また、放送終了後には、歌手の田原俊彦(55)が、ドラマ「教師びんびん物語」などで共演した相棒で、どん底の生活を送っていたことを告白した俳優の野村宏伸(51)に対し、ブログで熱いエールを送った。
前述のドラマ「教師びんびん物語」でのブレイク後、CM等のオファーが殺到し、20代にして月収が約6000万円にも達していたという野村宏伸。
金銭感覚も狂い、「1000万円以下は小銭」と感じていたそう。
また、2億8000万円の豪邸も衝動買いしたとの事。
しかし、本人がテング状態になり、更に舞台上がりの実力派俳優たちの台頭もあり、仕事が激減した。
その後、知人に大金を持ち逃げされたり、離婚も経験。
そんな時、田原と再会したという。
野村によると「あの頃と変りなくフランクに接してくれた」という田原から励まされ、「本当に背中を押されました。田原俊彦さんには感謝したい」と涙ながらに語った。
金銭感覚も狂い、「1000万円以下は小銭」と感じていたそう。
また、2億8000万円の豪邸も衝動買いしたとの事。
しかし、本人がテング状態になり、更に舞台上がりの実力派俳優たちの台頭もあり、仕事が激減した。
その後、知人に大金を持ち逃げされたり、離婚も経験。
そんな時、田原と再会したという。
野村によると「あの頃と変りなくフランクに接してくれた」という田原から励まされ、「本当に背中を押されました。田原俊彦さんには感謝したい」と涙ながらに語った。
田原は7日にブログを更新。番組を観たファンから野村の言葉を伝え聞くと、「宏伸、頑張ってるみたいですね。でも~今ごろ感謝されても~!遅いんだよな~アイツ!」と冗談交じりにコメントした。
「ああ見えて、彼は口数は少ないけど、男っぽいヤツですからね。これからの役者『野村宏伸』の生き様を期待しております」とエールを送るとともに、「えのもとぉ~~~~!!!!!!もう少し明るくできないのか!?」とトシちゃんらしくも、熱いメッセージをだった。
「ああ見えて、彼は口数は少ないけど、男っぽいヤツですからね。これからの役者『野村宏伸』の生き様を期待しております」とエールを送るとともに、「えのもとぉ~~~~!!!!!!もう少し明るくできないのか!?」とトシちゃんらしくも、熱いメッセージをだった。
【教師びんびん物語】トシちゃんの当たり役!「えのもとっ」「せんぱ~い」で人気でしたね!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
田原俊彦と野村宏伸の当たり役とされている「びんびんシリーズ」!トシちゃんが歌う主題歌「抱きしめてTONIGHT」や「ごめんよ涙」も大ヒットでした!萩原流行や阿藤快(阿藤海)も実にいいキャラ演じていましたよ~。
野村宏伸のプロフィール
のむら ひろのぶ(本名も同じ)。
1965年5月3日生まれ。東京都出身。
身長180cm。
1965年5月3日生まれ。東京都出身。
身長180cm。
1984年に映画のオーディションを妹が雑誌で見つけ、妹の推薦で応募した事が芸能界入りのきっかけ。
野村自身は俳優よりもその賞金欲しさに会場へ行き23000人の中から選ばれた。優勝賞金は500万円だった。
その後、俳優デビューし、日本アカデミー賞新人賞を受賞。
1987年「ラジオびんびん物語」でテレビドラマ初出演を果たす。
この出演を契機にその後はとんとん拍子に仕事が舞い込みスターダムを駆け上がる。
「教師びんびん物語」でアイドル系の俳優としてブレイクしたが、徐々に役者としての演技活動へシフトしていく。
野村自身は俳優よりもその賞金欲しさに会場へ行き23000人の中から選ばれた。優勝賞金は500万円だった。
その後、俳優デビューし、日本アカデミー賞新人賞を受賞。
1987年「ラジオびんびん物語」でテレビドラマ初出演を果たす。
この出演を契機にその後はとんとん拍子に仕事が舞い込みスターダムを駆け上がる。
「教師びんびん物語」でアイドル系の俳優としてブレイクしたが、徐々に役者としての演技活動へシフトしていく。
via www.suruga-ya.jp
私生活では、前述のように経済的余裕から、豪遊とも言える生活を送っていた。
1993年頃には年収が1億円を突破。世田谷区に敷地110坪、建物80坪の豪邸を建築した。
その後、友人らに計1億円弱を貸した。しかし、全く返済されず、仕事も激減したことで借金を抱え生活は困窮していった。
その後、離婚。2人の子供の親権は元妻が持った。
また、俳優業だけでは生活が出来なくなり、友人の自動車会社を手伝うなどして生計を立てた時期があった。豪邸は売却し、1億円以上あった借金を2000万円まで減らし借金はゼロになったという。
1993年頃には年収が1億円を突破。世田谷区に敷地110坪、建物80坪の豪邸を建築した。
その後、友人らに計1億円弱を貸した。しかし、全く返済されず、仕事も激減したことで借金を抱え生活は困窮していった。
その後、離婚。2人の子供の親権は元妻が持った。
また、俳優業だけでは生活が出来なくなり、友人の自動車会社を手伝うなどして生計を立てた時期があった。豪邸は売却し、1億円以上あった借金を2000万円まで減らし借金はゼロになったという。
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