あの広大な場所、ディスコは今?
田町新聞 | ジュリアナ東京の跡地って、今どうなっているの?
では、ソフト面で、あの「ジュリアナ東京」の音楽は、その後の日本の音楽に影響を与えたのでしょうか?
何処となくお祭りのような、阿波踊りのようなリズム...僕は嫌いじゃなかったけど...
きらびやかで、みんな楽しそうで、やたら豪華で、その一方少し淫靡なその「ジュリアナ」という響きは、私の妄想上では大きく膨れ上がり、遂にはこんな文章まで書くに至ってしまった。
ジュリアナテクノとは(音楽面から見て)
まず初めに、「ジュリアナテクノ」という言い方は当然日本だけのものであり、一般にはこれらの音楽を「ハードコアテクノ」とか、この前の第3次ブームの時には「ハイパーテクノ」などと呼んでいた。つまり、「ちゃんとしたテクノのジャンル」なのだ。これらの音楽は日本のみならず、当時のニューヨークやロンドンのクラブでも大ヒットしており、ブームになる以前の日本ではマニアックなテクノリスナーやDJなどが聞くようなジャンルだった。
そう考えると、アーティスト達がブームの犠牲になった感が強い。
そして、ジュリアナをリアルタイムで体験していない私にとってココで何があろうとも取り上げねばならないCD、それはAVEXから発売された「JULIANA'S TOKYO」シリーズだ。
偉大すぎるこのコンピレーションアルバムは、悲しいかなどこの中古CDショップでも必ず300円以下でゲットすることができる。お薦めはVOL 5。93年発売の所謂ジュリアナが一番熱かった時代の空気を感じ取ることが出来よう。
そこでの踊りは?後世に影響があったのか?
VIPルームの顧客にのみ配られた紫色のロゴ入り扇子を、女性客が持ったままお立ち台で踊ったのを真似たのが始まりとされるが、その後羽根つき扇子が導入されパワーアップして行った。「ロゴ入り扇子」や「羽根つき扇子(羽根扇やジュリ扇[5])とボディコンでハードコア・テクノやパラパラに乗って同じ踊りを踊る」というスタイルは地方の新興ディスコにも波及し、「盆踊りが現代に復活した」とも言われた。
Anime Odori Para-Para J-Pop Br - YouTube
J-Popの中でも脈々と生きているのですね!
営業最終日は無料開放となり、閉店を惜しむファンが全国から詰め掛けた。数千人収容できるホールにも入りきらず、入場待ち列が田町駅まで続くほどで、翌日昼過ぎまでアンコールの声が続いた。
しかし、日本のディスコの中で、閉店時にこれだけ店を惜しむお客に囲まれた所は数少ないのでは...
その後のあの人は? あの場所は?
ジュリアナ東京の仕掛人で
当時日商岩井社員だった「折原氏」は
退社後六本木「ヴェルファーレ」でも
成功し、グッドウィルグループ会長としても
マスコミに騒がれたのでご存知の方も多いのでは?!
そしてあの場所は...
まず、そもそもジュリアナ東京があったビルの場所はどこなのか。
住所は港区芝浦1-13-10。田町駅東口(芝浦口)から徒歩約7分の場所にあります。
というより、読者のみなさんにはボウリング場の「東京ポートボウル」が入っているビルと言ったほうが早いかもしれません。