戦前とはまるで様変わりした1970年代初頭、海外で生き残っていた日本兵が見つかったとゆうニュースが日本中を騒然とさせました。
1972年に帰国した横井庄一軍曹と1974年に帰国した小野田寛郎少尉。
1980年代以降も「経験」を生かし、ご活躍されましたね。
戦争に翻弄されたお二人の壮絶な人生を追います。
元日本兵・横井庄一さんの第一声
「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」
1972年、28年ぶりに祖国の土を踏んだ元日本兵・横井庄一さんが発した第一声は、あまりにも有名である。
太平洋戦争の記憶が薄らぎつつあった時代に、日本社会に衝撃を与えた奇跡の生還劇。
また、NHKの横井さんの報道特別番組「横井庄一さん帰る」は高視聴率を獲得する等、一躍時の人となりました。
番組では、帰国後に両親の墓参りをした際に「親孝行できなくてすみませんでした」と、墓石を抱きかかえて涙ながらに詫びる様子が映し出されました。
グアム島で戦死したと通知を受けた横井さんの母でしたが、息子の生還をずっと信じていたようです。しかし、その願いは叶いませんでした。
横井庄一とは?
昭和時代の軍人。
大正4年3月31日生まれ。昭和16年召集され,19年グアム島にわたる。
47年現地の人に発見されるまでの28年間,ジャングルに潜伏して生活。
「よっこいしょういち」は口癖になった
横井庄一と掛け声である「よっこいしょ」をかけたギャグであり、かつて日本全国で流行的に使われた。
現在は死語となっているが、椅子に腰掛ける際など思わずこの掛け声を発してしまう人もいまだにいるようである。
横井さんの実直な人柄が分かる映像
【1972年2月2日】 横井庄一さん帰還 - YouTube
来歴
1941年(昭和16年)には再召集され、満州を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の歩兵第38連隊に陸軍伍長として配属。
同年7月にはアメリカ軍が上陸し(グアムの戦い)、8月に同島で戦死したとされ戦死公報が届けられた。
1965年(昭和40年)10月30日の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた勲八等から勲七等青色桐葉章への昇叙者として官報掲載されている。
当時、グアム守備隊壊滅後も生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていたが、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされなかった。
横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日、エビやウナギをとるためにウケをしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した(なお、撤退当初から横井には2人の戦友が居たが、発見の約8年前に死亡している)。
ジャングルでの過酷なサバイバル生活
横井庄一さんたちは穴を掘って地下で生き延びる方法を選びました。
そして穴掘りと並行してランプを作る研究を行いました。ココナッツミルクを火にかけアクを取り、アクを再び火にかけると油と水が分離。
この油にヤシの繊維を編んで浸して燃やしランプとしました。
この油を手にいれたことで食生活も変わりました。ソテツの実を砕いた粉に食材をつけて油であげ天ぷらに。
完成した穴の出入り口は竹で作ったスノコや葉っぱで隠しました。
木の梯子を1.5mほど降りると居住スペースに。
台風に襲われた際は、実が流され食糧が無くなってしまい、次の実がなるまで野草を摂取しました。
また、自力で島を脱出しようと考え、海岸線を偵察する為に山に登りますが、そこにはかつての面影もない位に立派な道路が整備されていました。敵の眼をごまかして海へ出る事は無理だと悟ったそうです。
そして、1972年1月24日、食糧の獲物を捕獲する為に罠を仕掛けようとしたところを、現地の住民に発見されました。
実は発見者である現地住民は、親族を日本兵に殺された事から日本兵を非常に恨んでいて、横井さんに殺意を抱きますが、なんとか抑えたという話もありました。