帰国後の生活
約30年前までの日本しか知らない彼が、はたして暮らしていけるのだろうかと危惧されました。
しかし、驚く事に見事に順応します。
ジャングルで貨幣との関わりが無かった事が、当時の貨幣価値をすんなりと受け入れられた要因になったそうです。
帰国した年にお見合い結婚 「出会いのエピソード」
美保子さんに会った途端「わしの顔を見に来たんだろう」と言いました。
当時の横井さんはマスコミや一般人の人達から追いかけ回され、好奇の目で見られ続けていたため。人間不信に陥っていました。
しかし、美保子さんはそんな横井さんのニュースには一切無関心だったため、横井さんを好奇の目で見ることもなく、庭に誘いだし、「そんなに焦っても、いい人には巡り会えないよ。あなたは帰ってから1年も経っていない。ゆっくり探さないと。」とお説教をしました。
するとそれを聞いた横井さんは「怒ってくれる人が好きだよ」と答え、その日のうちにプロポーズをしました。
サバイバル術を生かして活躍
自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演。
当時の石油ショックに伴い、節約生活について自らの経験を語ったり、「日本沈没」等のブームに関連して災害時のサバイバルについて雑誌等でインタビューを受けた。
「このごろの人は、困り方が足りないんだと思う。だからくだらないことで甘えるんだよ。子供だってそうだ。・・心底困り果てた時は決まって神や仏が助けてくれるものだと思う。本当に困らないと助けてくれない。・・本当に困り果てた人間には神や仏が知恵を浮かばせてくれるんだと思うよ。」
小野田寛郎少尉を象徴する「敬礼」
1974年、ルバング島で、発見され、日本、そして世界の情勢を知らされたものの、それでも任務遂行のため、投降をこばみ、当時の上官である谷口元少佐がじきじき島まで出向き、その上位下達を持ってようやく、任務解除、地元フィリピン軍に降伏を行ったのである。
この敬礼している写真は、その時のものであり、YouTubeなどで、今でも映像をみられるが、凛とした姿、気然とした態度は、過酷な年月を感じさせず、帝国軍人の凄さ、それどころか、かつての日本の侍の荘厳さすら想像させる、圧倒的存在感がある。
小野田寛郎とは?
日本の軍人。大日本帝国陸軍の情報将校で、終戦を報されずフィリピンに29年間ものあいだ潜伏。ようやく発見され帰国後は実業家となり、健全な日本人の育成に努めた。渾名は『最後の日本兵』。
ラスト・サムライと称された小野田少尉
The last true SAMURAI - Japanese Spirit - YouTube
軍人らしい物堅さをまとった方です。
来歴
1942年 招集礼状で徴兵されるが、自動車運転や語学などの能力を見込まれ、予備仕官学校、中野学校へと進学する。
1944年12月 フィリピン戦の直前、長期抗戦目的のゲリラ戦指揮のため、フィリピンルパング島に着任。
1945年1月 ルパング島に米軍上陸、日本軍守備隊200名中160名が戦死、小野田少尉は3人一組のグループに分けさせ、ゲリラ戦を命令。
1945年10月 米軍の投降勧告で、小野田少尉のグループ以外の日本兵は投降。小野田グループの3人のみが残る。
この後長期に島に残る。フィリピン人の牛を盗む、フィリピン軍を殺害などして抵抗を続ける。またグループ中の1名が死亡。
1960年頃 残留日本兵発見の報告で、日本政府による呼びかけ実際されるが、発見されず死亡とされる。日本側は、戦争が終わった事を知らせている。
1972年10月 小野田少尉とフィリピン軍の銃撃戦で小野田少尉部下の小塚金七一等兵が死亡し、発見される。このため日本政府厚生省による再度捜索が実施される。後年小野田氏は小塚氏と意見が異なり衝突があった事を述べている。
また、横井さんの自宅に観光バスが止まる事もあったそうです。