小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独により疲労を深めていった。
昭和49年(1974年)に、一連の捜索活動に触発された鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。
鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国をうながし、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。
この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。
3月9日に、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。
冒険家・鈴木紀夫さんとのエピソード
「74年2月、冒険家の鈴木紀夫さん(当時24)が一人でテントの中にいると、小野田さんは2日間くらい鈴木青年を観察しました。鈴木さんが靴下にサンダル姿だったので、日本人じゃないかと判断し、夜中に近寄って、『おい』と声をかけたそうです。
それで鈴木さんに写真を撮らせ、『上官が任務解除命令を出したら帰る』と伝えたのです」(前出の大野さん)
すぐに上官と、兄で医者だった敏郎(としお)さんがルバング島へ行き、小野田さんと接触した。
「お兄さんが診察して、汚れた服をさっさと着替えさせたのです。
その後、マスコミがどっと来たのですが、小野田さんが身ぎれいにしていて絵にならないということで、現地での汚れた服に着替え直して、写真に納まったそうです」
かつて「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っています。
1987年、ヒマラヤで遭難し、翌年死亡が確認されました。
鈴木さんの死に対して、小野田さんは「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語り、その後、慰霊の為にヒマラヤを訪れました。
含蓄に富んだ名言集
目的がはっきりしていると、いろいろ切り捨てられる。「思い切り」というけど、目的があれば人間は思い切れるんです。
自分では「どうすることもできない」と思っていることでも、
本当は「どうにかしよう」としていないだけではないか。
「やってしまったことは『しかたがない』。これからどうするかだ。くよくよ負け犬になってしまう。負け犬は遠くから吠えるだけで向かってこない」
帰国後の生活
一部のマスコミから疎まれ、「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」などといったレッテル貼りや、虚偽報道によるバッシングなどが行われた。
また、当時の日本政府は、小野田氏に対して見舞金として100万円を贈呈したが、小野田氏は受け取りを拒否し、それでも見舞金を渡されたため、見舞金と多くの方々から寄せられた義援金は全て靖国神社に寄付し、こちらも非難の的にされ、昭和天皇との会見も、万が一に陛下が自身に謝罪するようなことを避けるために断っていた。小野田氏は、マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあったという。
上述したことが原因となり、戦前から大きく変貌した日本社会に馴染めなかった小野田氏は、帰国後に結婚した妻の町枝婦人と共に、次兄のいるブラジルに移住して牧場を経営し、10年を経て経営に成功する。
「小野田自然塾」を設立
小野田は、自らの抑留経験を基に、健全な人間形成と自然・社会との共存を図るために、これからを担う子供たちに自然教育の必要性を重んじ、1984年からキャンプ生活を通しての教育活動「小野田自然塾」を開講し、全国各地で子供たちに対する自然教育の推進を行った。
1989年、私財を投じて、自然塾を主宰する「財団法人小野田自然塾」を設立した。
2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った。その後も講演活動を続けていたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。
彼らの生き様は、戦争を知らない世代が命の尊さを考える契機にもなりました。
帰国した際の小野田さん