青島健太【プロ野球選手】はどんな人?現役時代の成績から現在の活動まで
2020年10月16日 更新

青島健太【プロ野球選手】はどんな人?現役時代の成績から現在の活動まで

元プロ野球選手の青島健太さんとはどのような人物なのかを振り返ります。現役時代の成績や引退後にどのような活動を行ったのかを解説。現在の活動などについても触れています。

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青島健太のプロフィール

青島 健太(あおしま けんた)

生年月日:1958年4月7日
出身地 :新潟県新潟市
身長  :182cm
利き腕 :右投げ右打ち
ポジション:三塁手(守備固めで遊撃手や二塁手へのコンバート経験あり)

元ヤクルトスワローズ在籍のプロ野球選手。
現役期間は1985年~1989年の約3年間。

青島健太の野球人生を年表で振り返る

青島健太さんは、ヤクルトスワローズで1985年から1989年にかけて活躍した元プロ野球選手です。

プロ選手としては、あまりに短い現役時代である事からもお判りの通り、実は青島さんはプロ野球選手としての実績や成績はあまり輝かしいものではありません。

そこで、幼少期からプロ野球引退までの概略を年表でひとまとめにしたのでご覧ください。
年       出来事
1968年 少年野球チームに入団する(小学4年)
1971年 草加市立栄中学校野球部に入部
1974年 春日部高等学校野球部に入部甲子園への出場は3年間で一度も果たす事は出来なかった
1977年 慶應義塾大学法学部政治学科へ入学六大学リーグで活躍し注目されるように
1981年 大学を卒業し、社会人野球チームのある東芝へ都市対抗野球で活躍する
1983年 都市対抗で4番を任され、優勝を飾る三塁手部門で大会優秀選手の一人に選ばれる
1984年 ロス五輪で初開催の野球競技で日本代表メンバーに選出されるしかし、本戦では出場機会を得ることは出来なかった
〃〃 ドラフト外入団(直接交渉による入団方法)でヤクルトスワローズへ入団する
1985年 プロ入団後、「初打席初本塁打」を放ち鮮烈デビューを飾る
1989年 現役を引退
詳細を省き、簡略的に青島さんの野球人生を振り返ると上記のようになります。

青島さんの野球選手としての評価が最も高かったのは、大学時代だったと言えます。

事実、1979年の秋季リーグでは本塁打数や打点でリーグトップを記録するなどプロ球団のスカウトが注目したのも、大学時代の好成績があったからです。

プロデビューこそ、初打席初本塁打という球団初の記録を打ち出しての鮮烈なデビューを飾りましたが、1年目に先発出場を果たしたのは9試合のみ。

その後、故障や打撃不振から1軍と2軍をさまよう事となり目立った記録を残すことなく球界を去ってしまいました。

青島健太引退後の肩書きは「スポーツライター」

プロ入りを果たすも、満足いく結果を残せずに引退した青島さんは引退後に様々な肩書きを持つようになります。

元々、大学時代も教員を目指していた事や大学をしっかりと卒業した上でプロになるという異色の経歴を持っていた為、引退直後の1990年にはオーストラリアで日本語の教師を1年間務めました。

1991年に帰国すると、プロ野球選手時代の人脈や持前の知性を活かして「スポーツジャーナリスト」として活動を開始します。

その後、Numberに「プロ野球を目指す少年たちよ、和式トイレを使え」というコラムを寄稿し、スポーツライターという肩書きを持つようになっていきます。

執筆業を本業としながら、テレビやラジオに加えて情報番組のキャスターなども務めるマルチな活躍を見せ、プロ野球選手時代よりも引退後の方が世間に知られる存在になった稀有な方です。

青島健太の炎上事件

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スポーツライターだけに留まらず、様々な分野で活動の場を広げ続けた青島さんは、情報番組などで主にスポーツ関連の話題でコメンテーターとして出演する機会も増えていきました。

そんな中、皆様も記憶に新しいある事件に対する青島さんのコメントが炎上騒ぎとなり話題となりました。

ある事件とは、日本大学アメフト部と関西学院大学アメフト部の定期戦で起きた「悪質タックル」問題です。

誰の目から見ても悪質な反則行為と言わざるを得ないプレーで、しかもそれを指示したのが日大の監督やコーチだったという事で大きな波紋を呼んだ事件でした。

世論も多くの有識者たちも監督やコーチの指導に対して疑問を持っている最中、青島さんが監督やコーチを擁護しているとも受け取れる発言をした事で賛否両論様々な意見が起こり炎上しました。
青島さんが監督やコーチを擁護する立場とも取れる発言に対して、多くの人が批判的な態度を示し炎上する結果となってしまいました。

筆者としても、日大の悪質タックル事件については監督・コーチに対しては全く擁護出来る部分は無かったと記憶していますが、青島さんがこのような発言をした裏には自身の経験した事が関係しているのかもしれません。

実は青島健太さんは、2005年に社会人野球チーム「ウェルネス魚沼」の監督に就任するも、方向性の違いからたった1年で辞任した経験を持っています。

辞任後すぐにサガミホールディングスの硬式野球部監督を務め、2年で都市対抗に出場できるチームを作り上げていますが、監督としてチームを率いる事の難しさを知っているが故に出てしまったコメントなのかもしれませんね。

青島健太の知事選出馬

青島健太さんは、2019年の埼玉県知事選挙に自民党からの要請を受けて出馬しています。

知事選は当初、行田邦子・青島健太・大野元裕らで争われ元参議院議員の行田優勢と言われていました。

しかし、熱中症による入院というアクシデントがあり行田氏が立候補を断念し青島支持を表明した事で戦局は混戦となりました。

残念ながらあと一歩届かず、わずか6万票差で大野氏に敗れ埼玉県知事になる事は叶いませんでした。

ちなみに、出馬要請をだしたとされるのが現内閣総理大臣の菅義偉氏だったと言われているので、あと2年知事選がズレこんでいれば青島健太埼玉知事が誕生していたかもしれませんね。

知事の任期は4年なので、次の埼玉県知事選で同じように菅義偉氏から出馬要請があれば、青島健太さんの新しい肩書きが「埼玉県知事」になる可能性も充分ありそうです。

まとめ

青島健太さんはプロ野球選手としての選手生命は薄命でしたが、引退した後に広く世間に知られる存在となった少し風変りな元プロ野球選手です。

スポーツライターという肩書きだけでなく、コメンテーターや大学客員教授という肩書きまで幅広く活躍しておられます。

埼玉県知事選への出馬などもあり、今後は政治家としての道を歩む可能性も。

日大問題での発言があり、悪いイメージを持つ方も多いですが、筆者は個人的にスポーツが本当に好きな方なんだろうなぁ・・という印象が強く、純粋で熱い方だと思っています。

政治とスポーツは大きく異なる分野なので、そちらについてはコメントしづらい部分もありますが、青島健太さんにはスポーツを通じた様々な取組で今後も活躍して頂きたいと願っております。

以上、青島健太さんにまつわる情報をお届けしました。

最後までお読みいただきありがとうございます。
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