【訃報】ラジオパーソナリティーとして活躍した、くず哲也さん死去。
70年代より、ラジオパーソナリティー・タレントとして活躍したくず哲也さん(くず てつや、本名:野村哲也)が、1月31日に急性骨髄性白血病のため亡くなっていたことが明らかとなりました。73歳でした。
第一報はこちらです!
ラジオパーソナリティーくず哲也さん、急性骨髄性白血病のため73歳で死去 (2021年2月2日) - エキサイトニュース https://t.co/vrGKfGKPcI @ExciteJapanより
— 水道橋博士(お笑い芸人) (@s_hakase) February 2, 2021
くず哲也さんは1947年、東京都出身。武蔵野美術大学を卒業後、音楽活動や男性向け雑誌「平凡パンチ」のライターなどの活動を経て、ニッポン放送のプロデューサー・上野修に見出され、1973年より同局のラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」の3代目パーソナリティーとして1975年まで同番組で活躍しました。その後も「くず哲也の日曜はダメよ」「くず哲のヤンヤン大学」といった番組で人気を博しました。その一方でテレビにも進出し、フジテレビ系列で放送されていた「オレたちひょうきん族」にも出演。歌手の上田正樹に風貌が似ていることから、上田役で出演し視聴者の笑いを誘っていました。
くず哲也さんがパーソナリティーを務めたラジオ番組の数々!
昭和~平成にかけて、数多くのラジオ番組に出演してきたくず哲也さん。その出演番組は非常に多岐に渡るため、そのすべてをご紹介することはとても出来ないのですが、ここでは中でも特筆すべき番組をいくつか振り返って観ましょう。
ザ・パンチ・パンチ・パンチ
まずご紹介するのは、くず哲也さんが一躍人気者になるきっかけとなった、ニッポン放送「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」。3代目パーソナリティーとして、1973年から1975年にかけて同番組に出演していました。「覆面パンチガール」という7名の女性を従える構成で、中でも「グッバイ・バージン」というコーナーではリスナーの初体験のエピソードを紹介し、時には放送禁止用語が飛び出す過激っぷりが話題となりました。
くず哲也の日曜はダメよ
1975年から1985年にかけてニッポン放送で放送されていた「NEVER ON SUNDAY くず哲也の日曜はダメよ」。視聴者から「人には言えないような話」「ダメ人間エピソード」などを募集し、毎週およそ800通に及ぶはがきが番組には届いたと言います。この番組の成功により、同様の企画が他の番組でも採用されるようになりました。
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SUPER FREAK SUNDAY
FM-FUJIで1991年から2001年にかけて放送されていた「SUPER FREAK SUNDAY(スーパー・フリーク・サンデー)」。最新の音楽やトレンドの紹介や、ゲストとのトークが繰り広げられる番組で、男女二人のDJによる掛け合いが人気を博しました。くず哲也さんは、その初代男性DJを務めています。
オレたちひょうきん族
ラジオ番組ではないのですが、1981年から1989年にかけてフジテレビ系列で放送されていた「オレたちひょうきん族」もご紹介します。くず哲也さんは同番組内の人気コーナー「ひょうきんベストテン」に出演し、前述の通り「悲しい色やね」などのヒットを持つ歌手・上田正樹と風貌が似ていることを活かし、視聴者に笑いを届けていました。
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これら以外にも、「くず哲のヤンヤン大学」「くず哲也のほいきた!土曜日一番のり」「僕も私もジャイアンツナイター」など、昭和から平成期かけての人気ラジオ番組を多数担当してきたくず哲也さん。彼の功績は、日本全国のラジオ愛好家の記憶に残り続けていくことでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。