ヤマハボーカルオーディション
via atmatome.jp
小学生の時に憧れていた歌手は梓みちよ、八神純子、岩崎宏美、大橋純子、沢田研二など歌唱力に定評があり人気の高い実力派シンガーの人たちで自分もなりたいと地域ののど自慢大会などに出場していた音楽好きの少女でした。
ヘアブラシをマイク代わりに歌っていた少女も中学生になり本格的に歌手になりたいという意思を固め動き始めました。渡辺プロダクションの東京音楽学院大阪校でボイストレーニングを受け実力を身につけ歌手デビューの一歩を渡辺プロダクションから打診されますが中学生という身分から父親が猛反対をして立ち消えてしまいます。
それでも彼女の歌手になりたいという気持ちは消えることなく1981年にヤマハボーカルオーディションを受け大阪地区代表という成績を残しました。最終結果は残念な結果となってしまいましたが、その実力を買われヤマハ側からスカウトという形でボイストレーニングを受けさせてもらえることになりました。
ヤマハからスカウトを受けた年から2年後の1983年、オリジナル曲「ハネムーンサラダ」で第26回ヤマハ・ポピュラーソングコンテストに近畿代表で出場しますがあえなく落選。グランプリは今も歌手として活躍している辛島美登里でした。その辛島曰く「美穂ちゃんは当時中学生なのに歌手になる信念がしっかりしていた。しかもちょっと気が強い子で可愛かった」とのちに語っているそうです。
実力派シンガーの仲間入りしたかったという気持ちの表れなのでしょうね。
実力派シンガーの仲間入りしたかったという気持ちの表れなのでしょうね。
同年、ヤマハボーカルオーディション「ザ・デビュー」(現「MUSIC REVOLUTION」)に出場しグランプリを獲得し念願の歌手デビューとなりました。
筆者の記憶ではアイドル歌手でもなくシンガーソングライターでもなくというイメージで時代に沿わない人といった印象だったと覚えています。顔は丸顔でアイドルらしからぬ風貌。ぶりっこが主流のアイドル業界で異質感丸出しという感じが強くあったと覚えています。
アイドル歌手・森川美穂
時代に乗っかった感じでアイドル歌手としてデビューした森川美穂のデビュー曲は「教室」。オリコンチャートでは最高38位と微妙なスタートだった。
via blog.livedoor.jp
初々しいアイドル歌手としての森川美穂の歌声はこちら。
教室
via www.youtube.com
実力派シンガーに憧れ芸能界入りを決意した森川美穂。自身でもアイドル歌手には抵抗があったと後日談で語っています。
3曲目の「赤い涙」、4曲目の「サーフサイド・ブリーズ 〜真夏の風」、5曲目の「姫様ズーム・イン」、6曲目の「おんなになあれ」、7曲目の「PRIDE」、8曲目の「Be Free」、9曲目の「わかりあいたい」までテレビドラマの挿入歌だったりCMなどでタイアップされていたりとヒットに繋がるようで繋がらないという日々が続きます。
アイドルとしてのキャッチフレーズは「多感世代のヴォーカルヒロイン」。アイドルらしからぬキャッチフレーズです。
1987年に発売された6曲目の「おんなになあれ」は飛鳥涼作詞作曲、7曲目の「PRIDE」は作詞:佐藤純子、作曲:大内義昭、編曲:小林信吾という面々で作られました。どちらともアイドル路線の曲調とは異なり実力派として活躍して行きたいと思っている森川にとって転機となりました。
おんなになあれ
1987年3月5日リリース。ミノルタカメラ「AFテレ」CM曲として使われていてオリコン最高位18位とメガヒットとまでならなくとも森川美穂を知ってもらういいきっかけにはなったことでしょう。
via www.ds-sounds.jp
本名:榎並美穂(えなみみほ)
誕生日:1968年5月5日
性別:女
かつてヤマハ音楽振興会に所属していた森川美穂は現在大阪芸大の准教授として教鞭をとっています。