監督から冷遇された日々
ユベントス→ACミラン
1995年、若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、高額の年俸更新を避けたいユヴェントスはインテルへの移籍交渉を進めていた。
選手の頭越しの交渉に反発したバッジョは、あえてインテルのライバルチームであるACミランへの移籍を自ら選択。しかしこれが災いし結果的に出場機会を減らすこととなった。
ACミランではファビオ・カペッロ及びアリゴ・サッキ監督がFWにデヤン・サヴィチェヴィッチを重用、バッジョの起用は限定的なものとなり在籍2シーズン中に目立った数字を残すことはできなかった。
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ACミラン→インテル
監督にロベルト・バッジョと相性の悪い、マルチェロ・リッピが就任したこともあって、ロベルト・バッジョも起用されなくなり、バッジョも次のシーズンには、ブレシアへと移籍してしまいました。
インテルへの移籍当時は、ブラジル代表の怪物ロナウドも在籍していました。
「RO-ROコンビ」とも呼ばれ、期待されますが、両選手共に怪我があり、「共演」はわずかな期間で終わってしまいました。
そして、怪我の影響に加え、前述のマルチェロ・リッピ監督との確執がやはり一番の移籍理由であったようです。
「RO-ROコンビ」とも呼ばれ、期待されますが、両選手共に怪我があり、「共演」はわずかな期間で終わってしまいました。
そして、怪我の影響に加え、前述のマルチェロ・リッピ監督との確執がやはり一番の移籍理由であったようです。
最後のワールドカップ・フランス大会
ギリギリで滑り込んだ代表の座
ワールドカップ直前のシーズンにバッジョは出場機会を求め、ミランからボローニャに移籍しました。
この移籍が発表された当初、バッジョはボローニャと一緒にセリエBに落ちるだろうと冷ややかな声が目立ちましたが、シーズンが始まるとボローニャでゴールを量産し、古巣ミランを上回る結果で終わりました。
この活躍でイタリア中、バッジョをワールドカップに連れて行くべきという声が大きくなり、ゾラではなく、バッジョがワールドカップへの切符を手にしました。
ゾラは当時のイタリア代表FWです。
FW陣には、他にもリーガ・エスパニョーラ(スペイン)で得点王に輝いたビエリ、ファンタジスタと呼ばれたデルピエロもいました。
バッジョは本大会直前に代表入りを決めました。
ちなみにそのニュースは日本でも話題となりました。
FW陣には、他にもリーガ・エスパニョーラ(スペイン)で得点王に輝いたビエリ、ファンタジスタと呼ばれたデルピエロもいました。
バッジョは本大会直前に代表入りを決めました。
ちなみにそのニュースは日本でも話題となりました。
準々決勝・フランス戦での名言
via www.jiji.com
試合は0-0のままPK戦に突入。1994年のW杯決勝でPKを外したバッジョは今度は成功するも、チームメートのディ・ビアッジョが外し、敗退してしまう。
試合後、泣き崩れるディ・ビアッジョを慰めているバッジョの姿が、なんだか泣けた(「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」と声をかけたという)。
本大会では、2得点1アシストと好成績を残したバッジョ。
上記の「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」は、彼のサッカー人生が凝縮した言葉であり、今も語り継がれる名言です。
フランスとのPK戦に敗れたイタリアは、三大会連続のPK戦での敗退が確定しました。
上記の「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」は、彼のサッカー人生が凝縮した言葉であり、今も語り継がれる名言です。
フランスとのPK戦に敗れたイタリアは、三大会連続のPK戦での敗退が確定しました。
バッジョ自身が起点となったオーストリア戦のゴール
BAGGIO - 1 goal against Austria 1998 (WC-98) - YouTube
via www.youtube.com