エルナン・クレスポ
エルナン・ホルヘ・クレスポ(1975年7月5日 - )は、アルゼンチン出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションはフォワード。
プレイスタイル
クレスポは典型的なストライカーで、ペナルティエリア内でボールを受けたときに最も実力を発揮するプレイヤーでした。ボールを受けるためのポジションを取る動きも非常に優れており、さらにはポストプレイもこなすことができる万能型の選手でもありました。
体格も上背もありポストプレーも上手いが、基本的にはオフザボールの動きが非常に優れていて裏へぬけるのが上手い選手。
シュートテクニックも非常に高い。CLのイスタンブール決勝戦のゴールなんかは彼の持ち味を存分に発揮したゴール。
戦術的にもとても賢い選手。
バロンドール候補
エルナン・クレスポはイタリアのクラブチームで活躍したアルゼンチン出身の元サッカー選手です。
特に、当時のイタリア史上最高額で移籍したラツィオではエースストライカーとして得点王を獲得するなど、実力を見せつけました。
その年のバロンドールにもノミネートされ、クラブの伝説的選手として敬意を集めています。
2001年のバロンドール
ヨーロッパ各国のスポーツジャーナリストの投票により、バロンドールを決める方式。
この時のクレスポは、ラツィオに所属していて、得点王を獲るなど調子が良い時期でした。
投票の結果、クレスポは16位となりました。
ちなみにこの年のバロンドールは、リバプールのマイケル・オーウェンが受賞しました。
この時のクレスポは、ラツィオに所属していて、得点王を獲るなど調子が良い時期でした。
投票の結果、クレスポは16位となりました。
ちなみにこの年のバロンドールは、リバプールのマイケル・オーウェンが受賞しました。
精彩を欠いた時期 その1
いつだって、エルナン・クレスポの評価は芳しいものではなかった。
少年の頃はエンツォ・フランチェスコリに憧れMFとしてプレーしたが、コーチはクレスポを特別な存在としては見ず、ダニエル・パサレラがリバープレートの監督に就任するまでは下部組織でのプレーが続く。
ようやくトップチームでプレーが出来るようになっても尚、ピッチよりもベンチにいる時間の方が長く、それはリバープレートを去る1996年直前まで続いた。
1996年オリンピックで得点王に輝きパルマが獲得に動いたが、当初はイタリアのサッカーに馴染めずに苦しんだ。
1996/97シーズン、1997/98シーズンは12得点を挙げるにとどまり、エースストライカーとしては満足のいく結果を残せず。サポーターから批難を浴びる。
クレスポ不遇の時代は長く続きます。
しかし、オリンピック得点王やリベルタドーレス杯での優勝に貢献する等の活躍も見られ、ある程度のインパクトは残しています。
しかし、オリンピック得点王やリベルタドーレス杯での優勝に貢献する等の活躍も見られ、ある程度のインパクトは残しています。
精彩を欠いた時期 その2
2002年に破格の条件でインテルへと移籍した。
しかし、怪我の影響であまり試合には出られず、期待ほどの結果は残せなかった。
翌シーズンの巻き返しが期待された矢先に、ロシア人の石油王であるアブラモヴィッチがオーナーに就任したチェルシーFCが行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、結局インテルはクレスポを手放してしまった。
インテリスタからの猛抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求するも時既に遅く、その願いは叶わなかった。
2003年はチェルシーに活躍の場を移すもイングランドのサッカーに順応できず精彩を欠き、出場機会にも恵まれなかった。
2004年にはジョゼ・モウリーニョがチェルシーの新監督となったが、構想外だったクレスポはACミランにレンタル移籍となり、イタリアに戻った。