杉原千畝
via ja.wikipedia.org
続いてはアーティストではなく外交官ですが、死後評価され映画化もされた杉原千畝さんです。
第二次世界大戦中に起きた、ユダヤ人のホロコースト。
当時リトアニアの日本領事館領事代理だった杉原千畝さんは、多くのユダヤ人にビザを発給し命を救いました。
第二次世界大戦中に起きた、ユダヤ人のホロコースト。
当時リトアニアの日本領事館領事代理だった杉原千畝さんは、多くのユダヤ人にビザを発給し命を救いました。
ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため[61]、難民の殺到は想定外の出来事であった。千畝は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」[62]などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。
本名:杉原千畝(すぎはらちうね)
生年月日:1900年1月1日
没年月日:1986年7月31日
出身地:岐阜県美濃市
1940年7月に、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などは、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていました。
当時のリトアニアはソ連軍に占領されていて、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到します。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知していた杉原千畝さんは、「(ビザの)発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、領事が最適当と認めたもの」を代替案としましたが、本省からは「旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよと」の発給条件厳守の指示が繰り返し回電されていました。
ソ連政府や本国からの再三にわたる退去命令を受けながらも、ビザを発給し続けた杉原千畝さん。
ベルリンへの異動命令を受けて、ベルリンに渡る汽車の中でもビザを書き続けました。
生年月日:1900年1月1日
没年月日:1986年7月31日
出身地:岐阜県美濃市
1940年7月に、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などは、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていました。
当時のリトアニアはソ連軍に占領されていて、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到します。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知していた杉原千畝さんは、「(ビザの)発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、領事が最適当と認めたもの」を代替案としましたが、本省からは「旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよと」の発給条件厳守の指示が繰り返し回電されていました。
ソ連政府や本国からの再三にわたる退去命令を受けながらも、ビザを発給し続けた杉原千畝さん。
ベルリンへの異動命令を受けて、ベルリンに渡る汽車の中でもビザを書き続けました。
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ユダヤ人を迫害から救った人物としてドイツ人の実業家のオスカー・シンドラーさんが有名ですが、杉原千畝さんは日本人にもあまり知られていませんでした。
亡くなる3年前の1983年になって、フジテレビが杉原千畝さんと妻の幸子さんと「日本に来たユダヤ人」の著者バルハフティクさんとの面談を含む「運命をわけた1枚のビザ―4,500のユダヤ人を救った日本人」を放送したことで、知名度が上がっていきます。
そして1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞しました。
ただ名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになっていきます。
外務省から冷淡な扱いを受け続け、名誉は回復されないまま1986年に逝去。
杉原千畝さんの発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルさんは、杉原千畝さんが外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、妻の幸子夫人に「日本に行って外務省に抗議する」旨を手紙で伝えています。
日本国政府によって杉原千畝さんの名誉が正式に回復されたのは、2000年10月10日で、死後14年もの月日が経ってからだったのでした。
亡くなる3年前の1983年になって、フジテレビが杉原千畝さんと妻の幸子さんと「日本に来たユダヤ人」の著者バルハフティクさんとの面談を含む「運命をわけた1枚のビザ―4,500のユダヤ人を救った日本人」を放送したことで、知名度が上がっていきます。
そして1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞しました。
ただ名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになっていきます。
外務省から冷淡な扱いを受け続け、名誉は回復されないまま1986年に逝去。
杉原千畝さんの発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルさんは、杉原千畝さんが外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、妻の幸子夫人に「日本に行って外務省に抗議する」旨を手紙で伝えています。
日本国政府によって杉原千畝さんの名誉が正式に回復されたのは、2000年10月10日で、死後14年もの月日が経ってからだったのでした。
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日本人として世界に誇れる人物に対してあまりにも遅い名誉回復でしたが、妻の幸子さんが2008年までご存命で見届けることが出来たのは、せめてもの救いのように感じます。
保身を捨てて解雇を覚悟で、人命を救った杉原千畝さんの功績はいつまでも語り継がれることでしょう。
保身を捨てて解雇を覚悟で、人命を救った杉原千畝さんの功績はいつまでも語り継がれることでしょう。
まとめ
今回は「死後に評価されたアーティストについて調査」についてご紹介しました。
人並外れた才能をお持ちの方ばかりで、生きている間に評価されていたら…と思わずにはいられません。
でも作品や功績は時代を超えて、いつまでも人々の心の中に感動を呼び続けるでしょう。
人並外れた才能をお持ちの方ばかりで、生きている間に評価されていたら…と思わずにはいられません。
でも作品や功績は時代を超えて、いつまでも人々の心の中に感動を呼び続けるでしょう。