1999年に話題となった入来兄弟
1999年、兄の智(さとし)が巨人(読売ジャイアンツ)へと移籍し、元から在籍していた弟の祐作(ゆうさく)とチームメイトになり、球団史上初の現役兄弟選手となった「入来兄弟」。
しかも、どちらも投手という彼ら。
2001年には共にオールスターゲームへ出場(智はこの時ヤクルトスワローズに在籍)し、史上初の兄弟による継投を行った。
そんな入来兄弟の野球人生を追った。
しかも、どちらも投手という彼ら。
2001年には共にオールスターゲームへ出場(智はこの時ヤクルトスワローズに在籍)し、史上初の兄弟による継投を行った。
そんな入来兄弟の野球人生を追った。
90年代の兄・入来智
1967年6月3日生まれ。宮崎県都城市出身。
身長178cm。体重80kg。
右投げ右打ちの投手だった。
身長178cm。体重80kg。
右投げ右打ちの投手だった。
小学4年生から野球を始め、九州の強豪校・鹿児島実高に進学。
1985年に夏の甲子園県予選で準決勝に進むが、鹿児島商工の前に敗退した。
卒業後は三菱自動車水島に入社。
1985年に夏の甲子園県予選で準決勝に進むが、鹿児島商工の前に敗退した。
卒業後は三菱自動車水島に入社。
1989年にドラフト6位で近鉄バファローズ入団。
この年のドラフトは「史上最高の大豊作」とされる。
同期には、この年の目玉として注目されていた新日本製鐵堺の野茂英雄、後に在籍した巨人(読売ジャイアンツ)でもチームメイトになった石井浩郎らがいる。
入来智は、球威とマウンド度胸を見込まれ先発・中継ぎ・抑えと全てこなす便利屋的存在として活躍し、5年間で125試合に登板した。
この年のドラフトは「史上最高の大豊作」とされる。
同期には、この年の目玉として注目されていた新日本製鐵堺の野茂英雄、後に在籍した巨人(読売ジャイアンツ)でもチームメイトになった石井浩郎らがいる。
入来智は、球威とマウンド度胸を見込まれ先発・中継ぎ・抑えと全てこなす便利屋的存在として活躍し、5年間で125試合に登板した。
via hp43.0zero.jp
1996年、シーズン中の6月に吉本亮との交換トレードで広島東洋カープへと移籍する。
しかし、ここでは出番が少なく、同年オフに再び吉本亮とのトレードで近鉄バファローズに復帰した。
翌年以降、再びリリーフとして結果を残す。
そして、1999年に巨人(読売ジャイアンツ)へと移籍した。
しかし、ここでは出番が少なく、同年オフに再び吉本亮とのトレードで近鉄バファローズに復帰した。
翌年以降、再びリリーフとして結果を残す。
そして、1999年に巨人(読売ジャイアンツ)へと移籍した。
1999.5.19 ヤクルトvs巨人8回戦 20/30
via www.youtube.com
90年代の弟・入来祐作
1972年8月13日生まれ。宮崎県都城市出身。
身長176cm。体重80kg。
右投げ右打ちの投手だった。
身長176cm。体重80kg。
右投げ右打ちの投手だった。
via www.asahicom.jp
小学校2年生の時に、兄・智が所属していた少年野球チーム「五十市タイガース」で野球を始めた。
中学進学後に投手としての才能が開花する。
完全試合を2、3回、ノーヒットノーランを6回記録し、3年生の時には、全国26の高校から進学の誘いを受けるほど注目された。
夏季休暇中に兄・智が所属していた三菱自動車水島硬式野球部の練習に参加。その際に出場した紅白戦で1イニングを三者凡退に抑えた。その様子をPL学園高等学校硬式野球部スカウト(元・同部監督)の井元俊秀が見ており、同部のセレクションを受験し、同校へ進学した。
中学進学後に投手としての才能が開花する。
完全試合を2、3回、ノーヒットノーランを6回記録し、3年生の時には、全国26の高校から進学の誘いを受けるほど注目された。
夏季休暇中に兄・智が所属していた三菱自動車水島硬式野球部の練習に参加。その際に出場した紅白戦で1イニングを三者凡退に抑えた。その様子をPL学園高等学校硬式野球部スカウト(元・同部監督)の井元俊秀が見ており、同部のセレクションを受験し、同校へ進学した。
via sharp78.com
PL学園高校時代には、中村順司監督の下で、宮本慎也などと共にプレー。
3年生の時には、「大阪のピッチャー四天王」と称されるが、在学中には春・夏とも、甲子園球場での全国大会出場を果たせなかった。
井元の勧めで亜細亜大学に進学。
1年生から硬式野球部のエースとして活躍。在学中には、東都大学1部リーグの公式戦で、通算54試合登板、23勝21敗、防御率3.22、234奪三振を記録。
一時はプロ野球ドラフト会議の上位指名候補に挙げられたが、4年生(1994年)の秋に右肩の血行障害が生じたことから評価が急変。同年のドラフト会議でどの球団からも指名されなかったため、右肩の手術を経て、卒業後に本田技研へ入社した。
本田技研時代の1996年には、アトランタオリンピック野球日本代表との練習試合で、先発投手として5回を被安打1と好投。この好投でエースの座をつかむと、第67回都市対抗野球大会でチームを優勝に導くとともに、橋戸賞(最優秀選手賞)を受賞。
ドラフト会議では、当時の逆指名制度によって、1位で巨人(読売ジャイアンツ)に入団することとなった。
3年生の時には、「大阪のピッチャー四天王」と称されるが、在学中には春・夏とも、甲子園球場での全国大会出場を果たせなかった。
井元の勧めで亜細亜大学に進学。
1年生から硬式野球部のエースとして活躍。在学中には、東都大学1部リーグの公式戦で、通算54試合登板、23勝21敗、防御率3.22、234奪三振を記録。
一時はプロ野球ドラフト会議の上位指名候補に挙げられたが、4年生(1994年)の秋に右肩の血行障害が生じたことから評価が急変。同年のドラフト会議でどの球団からも指名されなかったため、右肩の手術を経て、卒業後に本田技研へ入社した。
本田技研時代の1996年には、アトランタオリンピック野球日本代表との練習試合で、先発投手として5回を被安打1と好投。この好投でエースの座をつかむと、第67回都市対抗野球大会でチームを優勝に導くとともに、橋戸賞(最優秀選手賞)を受賞。
ドラフト会議では、当時の逆指名制度によって、1位で巨人(読売ジャイアンツ)に入団することとなった。
via sharp78.com