1997年、主に中継ぎ要員として、一軍公式戦ではチーム最多の57試合に登板した。勝利数は1勝に留まったものの、セットアッパー、ストッパー、ロングリリーフ、敗戦処理、谷間の先発まで経験。投球回数を上回る94奪三振を記録するなど、潜在能力の高さを示した。
1998年、開幕から中継ぎ要員として一軍に帯同したものの、調子が上がらず6月下旬に二軍へ降格。しかし、投手陣の離脱もあり、一軍に昇格し、先発ローテーションに定着。シーズン通算では、中継ぎで1勝、先発で6勝を挙げた。
さらに、11月6日に東京ドームで開かれた日米野球の親善試合・全米選抜対巨人(読売ジャイアンツ)戦で、先発登板。同年のメジャーリーグ公式戦で66本塁打を記録したサミー・ソーサから、2打席連続で三振を奪う活躍をみせた。
1999年、兄・智が近鉄バファローズから移籍。巨人(読売ジャイアンツ)の球団史上初めて、現役選手として兄弟で在籍することになったため、スコアボードの表記が入来弟に改められた。
1998年、開幕から中継ぎ要員として一軍に帯同したものの、調子が上がらず6月下旬に二軍へ降格。しかし、投手陣の離脱もあり、一軍に昇格し、先発ローテーションに定着。シーズン通算では、中継ぎで1勝、先発で6勝を挙げた。
さらに、11月6日に東京ドームで開かれた日米野球の親善試合・全米選抜対巨人(読売ジャイアンツ)戦で、先発登板。同年のメジャーリーグ公式戦で66本塁打を記録したサミー・ソーサから、2打席連続で三振を奪う活躍をみせた。
1999年、兄・智が近鉄バファローズから移籍。巨人(読売ジャイアンツ)の球団史上初めて、現役選手として兄弟で在籍することになったため、スコアボードの表記が入来弟に改められた。
2000年以降の兄・入来智
2000年のオフに巨人(読売ジャイアンツ)から戦力外通告を受ける。
2001年、若松監督の東京ヤクルトスワローズへ移籍。自己最多の10勝をあげリーグ優勝・日本一に貢献した。
特に前半は8勝をマークするなど同年のオールスターゲームに監督推薦で初出場し、祐作と史上初のオールスター戦での「兄弟継投」を行った。
7月20日の第1戦(福岡ドーム)に弟・祐作が先発。2回裏途中で兄の智に交代したことで、オールスター史上初の「兄弟継投」を実現した。
しかし翌2002年は故障の影響で1勝に終わり、オフに戦力外通告を受けた。なお、この2年間で兄弟での対決は実現しなかった。
2001年、若松監督の東京ヤクルトスワローズへ移籍。自己最多の10勝をあげリーグ優勝・日本一に貢献した。
特に前半は8勝をマークするなど同年のオールスターゲームに監督推薦で初出場し、祐作と史上初のオールスター戦での「兄弟継投」を行った。
7月20日の第1戦(福岡ドーム)に弟・祐作が先発。2回裏途中で兄の智に交代したことで、オールスター史上初の「兄弟継投」を実現した。
しかし翌2002年は故障の影響で1勝に終わり、オフに戦力外通告を受けた。なお、この2年間で兄弟での対決は実現しなかった。
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2003年は韓国プロ野球・斗山ベアーズに入団し、韓国プロ野球初の外国人枠登録による日本人投手となった。
2004年に台湾・La Newベアーズに移籍。4勝をマークしたが同年限りで現役を引退した。
2004年に台湾・La Newベアーズに移籍。4勝をマークしたが同年限りで現役を引退した。
2000年以降の弟・入来祐作
2000年以降の入来祐作は数多くのチームを渡り歩く事となる。
2000年、前年に右足首の靱帯が2本断裂していたことが判明し、手術を受けた影響で二軍生活が長く、一軍公式戦では7試合の登板にとどまった。
2001年、4月12日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)に先発。8回1/3を1失点に抑えた結果、一軍では722日振りの勝ち星を挙げた。
シーズン通算では、チーム最多となる13勝を挙げるとともに、リーグトップの勝率を記録した。終盤には藤井秀悟(ヤクルト)との間で勝利数を争ったが、1勝差で最多勝利のタイトルを逃した。
また、当時はセントラル・リーグが最高勝率投手を表彰しなかったため、キャリアハイの成績を残しながらタイトルと無縁に終わった。
2002年以降は、足の故障に苦しみ、満足のいく成績を残せずにいた。
2000年、前年に右足首の靱帯が2本断裂していたことが判明し、手術を受けた影響で二軍生活が長く、一軍公式戦では7試合の登板にとどまった。
2001年、4月12日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)に先発。8回1/3を1失点に抑えた結果、一軍では722日振りの勝ち星を挙げた。
シーズン通算では、チーム最多となる13勝を挙げるとともに、リーグトップの勝率を記録した。終盤には藤井秀悟(ヤクルト)との間で勝利数を争ったが、1勝差で最多勝利のタイトルを逃した。
また、当時はセントラル・リーグが最高勝率投手を表彰しなかったため、キャリアハイの成績を残しながらタイトルと無縁に終わった。
2002年以降は、足の故障に苦しみ、満足のいく成績を残せずにいた。
そして、2003年12月に、井出竜也との交換トレードで北海道日本ハムファイターズに移籍。この際、ポスティングシステムによる2年後のメジャーリーグ球団への移籍を容認することを求めている。
2004年1月の入団会見で、メジャーリーグへの挑戦を白紙に戻すことを表明。
2005年、開幕を2軍で迎えたが、中継ぎ要員としてすぐに一軍へ昇格し、先発ローテーションに定着。2003年に取り組んだトレーニングの効果で球速が5km/h近く上がったことや、前年のウィンター・リーグでツーシームを習得したことが功を奏した。
7月17日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、勝利投手にならなかったものの、10回を1安打無失点に抑えたことからヒーローインタビューを受けている。8月13日の福岡ソフトバンクホークス戦では、杉内俊哉との投げ合いの末に、一軍では3年振りの完封勝利を達成。その結果、シーズン通算で勝ち運に恵まれず勝敗は6勝7敗の成績だったが、チームトップの防御率3・35を記録した。
2004年1月の入団会見で、メジャーリーグへの挑戦を白紙に戻すことを表明。
2005年、開幕を2軍で迎えたが、中継ぎ要員としてすぐに一軍へ昇格し、先発ローテーションに定着。2003年に取り組んだトレーニングの効果で球速が5km/h近く上がったことや、前年のウィンター・リーグでツーシームを習得したことが功を奏した。
7月17日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、勝利投手にならなかったものの、10回を1安打無失点に抑えたことからヒーローインタビューを受けている。8月13日の福岡ソフトバンクホークス戦では、杉内俊哉との投げ合いの末に、一軍では3年振りの完封勝利を達成。その結果、シーズン通算で勝ち運に恵まれず勝敗は6勝7敗の成績だったが、チームトップの防御率3・35を記録した。
2005年のシーズン終了後に、改めてメジャーリーグへの挑戦を表明した。
2006年 ポスティングシステムで入札したニューヨーク・メッツとの間で、1月中旬にメジャー契約で合意するも、その後、同球団とマイナー契約を締結したうえで、傘下球団のノーフォーク・タイズ(3A)に所属。
結局、3Aでの登板のみに終わり、2007年にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を締結した。
しかし、試合の投球中に起こした怪我(右腕の肉離れ)に苦しみ、メジャー昇格が叶わぬまま、8月に契約を解除された。
2007年10月に横浜ベイスターズに入団。しかし、またも右腕の肉離れが発生。
公式戦では3試合の登板で、0勝0敗、防御率8.53に終わった。10月1日に球団から戦力外通告を受けたことを機に、現役引退を表明した。
2006年 ポスティングシステムで入札したニューヨーク・メッツとの間で、1月中旬にメジャー契約で合意するも、その後、同球団とマイナー契約を締結したうえで、傘下球団のノーフォーク・タイズ(3A)に所属。
結局、3Aでの登板のみに終わり、2007年にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を締結した。
しかし、試合の投球中に起こした怪我(右腕の肉離れ)に苦しみ、メジャー昇格が叶わぬまま、8月に契約を解除された。
2007年10月に横浜ベイスターズに入団。しかし、またも右腕の肉離れが発生。
公式戦では3試合の登板で、0勝0敗、防御率8.53に終わった。10月1日に球団から戦力外通告を受けたことを機に、現役引退を表明した。