「お笑い怪獣」明石家さんま
2019年の初夏、お家騒動に揺れた吉本興業にあっても、明石家さんまの存在感は際立っていましたね。
長きにわたって日本のお笑い界をリードし、いまなお「お笑い怪獣」と称されトップに君臨する明石家さんま。本名の杉本高文という名前も知れ渡っていて、明石家一門があるわけでもないなか、この明石家さんまという芸名の由来について書いてみます。
長きにわたって日本のお笑い界をリードし、いまなお「お笑い怪獣」と称されトップに君臨する明石家さんま。本名の杉本高文という名前も知れ渡っていて、明石家一門があるわけでもないなか、この明石家さんまという芸名の由来について書いてみます。
18歳で笑福亭松之助に弟子入り
1974年2月、高校3年の時に二代目笑福亭松之助に弟子入りします。入門動機は、花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったから。高校卒業後の3月に、正式に内弟子修行を開始しました。
したがって当初の芸名は笑福亭さんま。「さんま」の由来については奈良の実家がさんまの水産加工業を営んでいたことからでした。
松之助は、弟子の家業から名前を考案することが多く、さんまの兄弟弟子には、自転車店出身の明石家サドル、下着店出身の明石家パンツ、美容室出身の明石家パーマなどがいたという。命名時のエピソードとして、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代に芸名を「紳助」と決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐ後に「さんま」という芸名を貰った話を聞いて「こいつ(芸能人として)終わったな」と逆に大笑いされたというものがある。
後述しますが「明石家」はさんまが初めてではなく、笑福亭松之助の本名「明石」から、すでに兄弟子が「明石家」を名乗っていました。
それにしても現在の明石家さんまの影響力を考えると「サドル」「パンツ」「パーマ」よりは「さんま」で良かったのではないかと感じてしまいます。。。
それにしても現在の明石家さんまの影響力を考えると「サドル」「パンツ」「パーマ」よりは「さんま」で良かったのではないかと感じてしまいます。。。
1975年、笑福亭さんまとして初舞台
入門後、半年もせずに京都花月にて初舞台。古典落語のうち「播州めぐり」を10日間ほど口演しました。本人いわく「初舞台では緊張で頭が真っ白になって、ネタをやり直した」とのこと。
実は入門直後、内弟子修行を放り出して交際していた女性と共に上京して東京で一旗揚げようと試みています。これは「さんま駆け落ち事件」と呼ばれていますが師匠の笑福亭松之助は黙って見守り、上手くいかずに帰阪したさんまがスムースに復帰できるよう上方落語界や吉本興業への根回しをしていたそうです。
実は入門直後、内弟子修行を放り出して交際していた女性と共に上京して東京で一旗揚げようと試みています。これは「さんま駆け落ち事件」と呼ばれていますが師匠の笑福亭松之助は黙って見守り、上手くいかずに帰阪したさんまがスムースに復帰できるよう上方落語界や吉本興業への根回しをしていたそうです。
タレントとしての才能を見出される
当時、吉本興業で若手タレントのマネージャー的存在だった佐敷愼次氏は、さんまを古典落語でなく漫談家やテレビ司会者として育成したいとして、笑福亭松之助に打診します。
同氏の目には「人と交わることで光り輝く」さんまの才能が映っていたそうです。この打診に承諾を得られたことで、さんまのキャリアの方向性が定まったと言ってもよいでしょう。
同氏の目には「人と交わることで光り輝く」さんまの才能が映っていたそうです。この打診に承諾を得られたことで、さんまのキャリアの方向性が定まったと言ってもよいでしょう。
1976年1月、明石家さんまデビュー
「11PM」の読売テレビ制作担当日(大阪イレブン)で放送された「落語家の成人式(20歳を迎える上方落語家をゲスト出演させる)」という企画で、そのときにさんまは明石家さんま名義で出演。
この前年、笑福亭松之助の助言で亭号を改め明石家さんまを名乗るようになります。「明石家」は笑福亭松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は笑福亭松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていました。
テレビデビュー当日、笑福亭松之助は「人と同じことして売れるはずがない、着物ではなく赤いブレザーを着ていけ。」と指示したそうです。
この前年、笑福亭松之助の助言で亭号を改め明石家さんまを名乗るようになります。「明石家」は笑福亭松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は笑福亭松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていました。
テレビデビュー当日、笑福亭松之助は「人と同じことして売れるはずがない、着物ではなく赤いブレザーを着ていけ。」と指示したそうです。
番組に出演していた横山やすしに「飲みに行こ!」と気に入られ、その後やすしに朝まで付き合わされ、その後やすしの家に招待されて朝の5時に競艇(ボート)のエンジン音のメーカー別の暗記と、30分後にテストをさせられたというが、翌日やすしは吉本興業の社員に対し「さんまは面白い」と売り込んでくれたと言う。この放送を見ていた松之助は、のちにさんまを大いに絶賛している。松之助曰く、出演者の多くが着物姿の中、忠告に従って営業用の赤いブレザーを着用して放送に臨み、またよくしゃべったさんまは目立ったという。
笑福亭から明石家に、落語家から漫談家に
笑福亭から明石家に屋号を変え、落語家から漫談家に転身した格好となったさんまは、うめだ花月の前座で披露していた小林繁(阪神タイガース投手)の投球フォームなどの形態模写で知られるようになります。
ヤングおー!おー! 桂三枝・明石家さんま(1979年)
via www.youtube.com
1976年、毎日放送の人気番組「ヤングおー!おー!」に初出演。司会の桂三枝の目に留まり、1978年頃からレギュラー出演を果たします。
三枝の愛称「サニー」にあやかって「チャッピー」と愛称を付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわすこととなります。
三枝の愛称「サニー」にあやかって「チャッピー」と愛称を付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわすこととなります。
極上のつかみ
via www.youtube.com
本名は明石徳三さん。