爆風スランプの淡く切ない名バラード『大きな玉ねぎの下で』
2021年5月26日 更新

爆風スランプの淡く切ない名バラード『大きな玉ねぎの下で』

切なさ溢れる青春恋愛バラード、爆風スランプ『大きな玉ねぎの下で』。 今も愛され続ける名バラードの切なく悲しいストーリーや誕生秘話、「玉ねぎ」のネーミング由来、貴重な武道館でのライブ映像などを紹介。

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爆風スランプの名バラード『大きな玉ねぎの下で』

ポケベルも携帯電話もなく、文通やラブレターがメインだった頃。
文通相手(ペンフレンド)と初めて実際に出会うことになった少年に起きた出来事を歌った切なく悲しい青春恋愛バラード『大きな玉ねぎの下で』。

爆風スランプが1985年に発売した2ndアルバム『しあわせ』に収録。
『Runner』や『リゾ・ラバ -Resort Lovers-』がヒットした後の1989年10月21日に15枚目のシングルとしてリメイクバージョンの『大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い』を発売、オリコン週間TOP10に入るヒットとなった。
大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い

大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い

作詞:サンプラザ中野
作曲:嶋田陽一
編曲:BAKUFU-SLUMP、松原幸広

コスモ石油CMソング
松竹映画『バトルヒーター』主題歌
1989年12月31日の『第40回NHK紅白歌合戦』でも歌われた。
爆風スランプ(BAKUFU-SLUMP)

爆風スランプ(BAKUFU-SLUMP)

早稲田大学のサークルのバンド"爆風銃(バップガン)"と"スーパースランプ"を母体に、ボーカルのサンプラザ中野(2008年に芸名を「サンプラザ中野くん」に変更)とギターのパッパラー河合を中心に結成された4人組。

1984年に『よい』でデビュー。ギャグ感覚満載のユーモラスな歌詞と超絶的テクニックによるファンク・チューンで人気を集める。
コミックバンド的な扱いであったが、1988年に出した「Runner」の大ヒットで人気バンドの仲間入り。
以後「リゾ・ラバ」「大きな玉ねぎの下で」などもヒットし、1990年代初頭のJ-POPシーンを盛り上げた。

『大きな玉ねぎの下で』の歌詞で描かれた切ないストーリー

主人公の少年は遠くに住んでいる文通相手の女の子への想いが募り、貯金をはたいて武道館で行なわれるライブのチケットを購入して送る。
定期入れの中のフォトグラフ
笑顔は動かないけど
あの大きな玉ねぎの下で
初めて君と会える
手紙を読んで返事を書き、その返事を受けとってから、また書いて送るという文通での交流はゆっくりと少しずつ進んでいくため、相手の情報は少ない。
だからこそ、限られた情報から会える時の期待や不安など想像が大きく膨らんでいく。
ペンフレンドの二人の恋は
言葉だけが頼みの綱だね
何度もロビーに出てみたよ 君の姿を探して
ポケベルも携帯も無い時代、約束の時間になっても相手が現れないと周囲をキョロキョロと見回しながら「あれ?場所を間違えたかな?時間を間違えたかな?」と不安がどんどん大きくなり、居ても立っても居られない心境になってしまう。
待ち合わせ場所で相手を待つ時の不安は現在とは比較できないほどの大きさであった。
君がいないから 僕だけ 淋しくて
君の返事読み返して 席を立つ
そんなことをただ繰りかえして
コンサートは盛り上がっていくのに肝心の相手は不在。
「もしかしたら、そもそも断られたんじゃないのか」という不安に駆られながら、武道館に一緒に行こうという誘いに対して『OK』と書いてあるだろう手紙を何度も何度も読み返す。
「なんで?」「どうして?」と疑問と、「このまま来ないんじゃないか」という不安が胸を圧し潰す。
アンコールの拍手の中 飛び出した
僕は一人 涙を浮かべて
千鳥が淵 月の水面 振り向けば
澄んだ空に光る玉ねぎ
武道館のコンサートへ誘う手紙を書いて返信が来るまでのドキドキ。
『OK』の返事が来てからの武道館へ行くまでのワクワク。
その全てが空しく悲しい。

なぜ、彼女は来ないのか…

当日急に体調が悪くなってしまったのか?
武道館へ向かう途中に事件や事故に巻き込まれてしまったのか?
という不安。

本当は一緒にコンサートに行きたくなかったのか?
もしかしたら、自分のことは嫌いだったんじゃないか?
という疑念。

しかし、今それを女の子に確認する手段は無い。
切なさと悲しみに耐えかねた男の子は楽しみにしていたコンサートの途中で会場を飛び出してしまう。

携帯が無い時代の不便さが生み出したとも言える淡く切ない失恋物語。
同じ経験をしたことがあるわけでも無いのに、その情景が目に浮かび胸が締め付けられる。

「玉ねぎ」のネーミング由来と、楽曲誕生秘話

玉ねぎ=日本武道館の擬宝珠(ぎぼし)

曲名および歌詞に登場する「玉ねぎ」とは日本武道館の屋根の上に載っている擬宝珠である。

大学時代にサンプラザ中野が武道館近くの首都高速道路を走行中にたまたま目に入った擬宝珠の印象を何気なく「玉ねぎみたいだ」とバンド仲間に語ったことがネーミングのきっかけになったという。

「玉ねぎ」の他にも「九段下」「千鳥ヶ淵」など曲の舞台が日本武道館であると特定できる要素が歌詞に含まれているが、武道館の名前自体は歌詞に含まれていないため、「わかる人にはわかる」歌詞になっており、「玉ねぎって何のこと?」と疑問に思う人も多かった。
日本武道館(にっぽんぶどうかん)

日本武道館(にっぽんぶどうかん)

日本武道館は1964年のオリンピック東京大会を機に建設された。
設立された頃は『日本武道の聖地』的な意味合いが現在以上に強かったため、1966年にビートルズのコンサートが行われた際には、「日本の武道文化を冒涜する」などとして異を唱える者も多かった。
ビートルズの来日公演以降、多くのアーティストが伝説に残る公演を行ない『ライブの聖地』とも呼ばれている。
日本武道館の擬宝珠(ぎぼし)

日本武道館の擬宝珠(ぎぼし)

擬宝珠は橋や寺社の欄干などに使用されており、一説には、仏教において願いを叶える宝珠を模したものだから、模擬の宝珠という意味で擬宝珠と名付けられたといわれている。
ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれているが、このことをサンプラザ中野が知ったのは曲ができた後であり、「当たらずとも遠からずの歌詞だった。お釈迦しゃかさまもほほ笑んでくれたらうれしいね」と感想を残している。

武道館への想いが生んだ『大きな玉ねぎの下で』誕生秘話

爆風スランプがメジャーデビューした1984年。
日本武道館に近い九段会館でライブを行った。

「武道館でコンサートを行う」
それは多くのミュージシャンにとって憧れである。
九段会館のトイレの窓から武道館の擬宝珠を眺めながら「俺らもいつかはここで」と願った。

だが、その"いつか"はあっさり訪れる。
九段会館でのコンサートが好評で翌年の12月に武道館でコンサートを開催することが決定した。
感動は大きく爆風スランプは武道館ライブ決定を記念して開催直前の1985年10月10日に『嗚呼!武道館』を4枚目のシングルとしてリリースした。

いっきに夢を実現させた爆風スランプであったが、客席にむけて消火器を放射したり、スイカを投げたり、放送禁止用語交じりの過激な歌詞などからコミックバンド扱いだったため、「俺らが武道館を満員にできるわけない」と不安になっていく。

そこで、「どうせ満席に出来ないのであれば空いている席にも物語を持たせよう。」という流れで、『席が空いているのはペンフレンドを誘ったけど来なかったから』という言い訳を歌詞にした『大きな玉ねぎの下で』が作ることになった。
 
空席の言い訳ソングだったのに、サンプラザ中野は歌詞を書きだすと「もっと良い作品にしたい」という思いが強くなり、どこから何が見えるのか武道館周辺で現地調査を行ったり、締め切りギリギリまで歌詞を悩みまくった。
レコーディングを翌朝に控えた深夜3時に最後のフレーズが決まった。
当時はFAXもメールもないので自宅からディレクターに電話で歌を聴かせてOKをもらったという。
その最後まで悩んだ歌詞の部分は「君のための席がつめたい」であった。

【動画】大きな玉ねぎの下で/爆風スランプ(武道館ライブ)

1985年12月13日に開催した初の武道館ライブは予想に反し満席。
サンプラザ中野は満席のファンに感謝の気持ちを伝えながら『大きな玉ネギの下で』誕生エピソードを明かした。

苦しげに声を絞り歌うサンプラザ中野の素朴な歌い方が、切ない青春を描いた歌詞と見事にマッチしている。

1999年に発売された『大きな玉ねぎの下で』のアンサーソング

テレビ東京系「ASAYAN」の「乱発オーディション」でデビューを勝ち取ったYURI(中村友理)と、友人のMARI(伊澤真理)の二人組ユニットYURIMARI(ユリマリ)。

YURIMARIは爆風スランプのサンプラザ中野・パッパラー河合が共同プロデュースとして関わり、1999年1月に5thシングルとして『大きな玉ねぎの下で』のアンサーソング、『初恋~はるかなる想い~』をリリースした。
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