小結・佐田の海鴻嗣
1970年代末から1980年代前半にかけて活躍した大相撲力士。
大阪府堺市中区出身(出生地は熊本県阿蘇郡一の宮町(現・同県阿蘇市一の宮町))で、現役時代は出羽海部屋に所属した。
最高位は東小結(1982年1月場所、1982年3月場所、1983年11月場所)。
本名は松村 宏司(まつむら こうじ)。現役当時の体格は183cm、128kg。得意手は右四つ、寄り。
もろ差しからの速攻を得意とした、技能派力士であった。
幕内在位45場所、敢闘賞が2回で、殊勲賞と技能賞が1回と、三賞受賞経験もある実力ある力士でした。
所属先の出羽海部屋の親方の元横綱、佐田の山に鍛え上げられた厳しい指導がその実力の基盤にあったみたいです。
1980年11月場所に新入幕
同場所では、初日からの9連勝の星を含め11勝4敗という好成績を収め、初の三賞(敢闘賞)を受賞。
師匠の出羽海親方(元佐田の山)からの「引くな」との教えを忠実に守り、持ち前の二本差しての速攻と前捌きの上手さが開花した。
1982年1月場所では小結に初めて昇進し、8勝7敗と勝ち越した。
この場所では、9日目に横綱・千代の富士に勝った一番が評価され、殊勲賞を受賞している。
千代の富士にも臆さず向かっていく!
Chiyonofuji vs. Sadanoumi : Kyushu 1981 (千代の富士 対 佐田の海) - YouTube
この一番は惜しくも負けてしまいますが、真っ向からぶつかっていきます!
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本来の実力を出し切れないまま引退
幕内上位や小結での勝ち越しが何度かあったわりには運がなく、一度も関脇には昇進できなかった。番付運の悪かった力士ともいえる。
その後肘を故障してからは低迷し、肘の手術に踏み切ったものの回復せず、幕内最終場所となった1988年3月場所では15戦全敗を記録している。
その2場所後の同年7月場所中(14日目の取組直前)、現役に未練を残しつつも引退を表明。
以後は借株で年寄・二十山や同・中立などを襲名し、出羽海部屋付きや中立部屋(現・境川部屋)付きの親方として日本相撲協会に残っていたが、1999年8月に退職した。
生涯戦歴
生涯戦歴 544勝581敗7休/1124出(99場所)
幕内戦歴 304勝371敗/675出(45場所)、1技能賞、1殊勲賞、2敢闘賞
小結戦歴 24勝36敗/60出(4場所)、1殊勲賞
前頭戦歴 280勝335敗/615出(41場所)、1技能賞、2敢闘賞
十両戦歴 70勝86敗7休/155出(11場所)
幕下戦歴 109勝80敗/189出(27場所)、1優勝
三段目戦歴 36勝27敗/63出(9場所)
序二段戦歴 19勝16敗/35出(5場所)
序ノ口戦歴 6勝1敗/7出(1場所)、1優勝
前相撲戦歴 1場所
豪快な佐田の海らしいエピソード
序ノ口から引退の直前まで休場はなく、通算連続出場1124回の記録を残している。
中学時代は軟式野球の部員であった。1980年頃に力士会行事として横浜スタジアムで行われた野球大会でも、飛距離の出ない軟球が使用されていたにもかかわらずレフトスタンへのホームランを放ったことがある。
当時これには周囲が「すごい。プロ選手だって軟式ではスタンド入りは難しいのに」と大騒ぎになったと伝わっている。
髷(まげ)を結う床山(とこやま)との関係
出羽海部屋所属の特等床山・床安とは年が近いこともあって仲が良かった。佐田の海は関取になってからも床安にしか頭を触らせないなど床安との信頼関係が厚く、結婚する前は毎日のように交流を持っていたという。
その床安曰く現役時代は「女にモテて、酒に強く、ええかっこしい。相撲取りらしい相撲取り」だったそうであり、佐田の海は床安に財布を預けられることが常だったという。
ある日佐田の海は「俺の頭をやっている床山がみっともない格好をしていたらあかんだろ」と、ジャケットを贈ったことがあり、気配りができて義理に熱い人柄でもあったと床安は語っている。