その体格を生かした取り組みで番付を駆け上がった。千代の富士が圧倒的な力を見せ付けていた時代、そのライバルとして担ぎ上げられた時から転落が始まっていたのかも知れない。
北尾 光司(きたお こうじ、1963年8月12日 - )は、三重県津市出身の元大相撲力士・元総合格闘家・元スポーツ冒険家・ナイフ評論家、元プロレスラー。
大相撲横綱時代(第60代横綱)の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。
デビュー~大関昇進まで
そんな双羽黒(北尾)を角界が放っておくわけがありません。
「5年で関取になれなかったら帰って来る」との条件付きで、中学校卒業と同時に立浪部屋に入門した。
双葉黒は、中学卒業とともに角界に入門、1984年9月場所に21歳で入幕を果たし、3場所目に三役、9場所目の1986年初場所に大関となりました。大関昇進までの8場所中、5場所は2桁勝利をおさめるという抜群の成績を残しました。
大関時代の名一番
そのケガのきっかけが双羽黒(北尾)による鯖折りが原因だと言われている。これを見た小中学生のなかでイジメのひとつとして鯖折りが流行したとかしないとか。
小錦の膝は体重だと個人的には思う。
北尾 KITAO vs. 小錦 KONISHIKI (May 1986) - YouTube
優勝経験無しに横綱に昇進してしまう
この後、横綱昇進の基準が厳しくなってしまうため優勝経験の無い横綱としては、現時点では最後の横綱である。
昇進の基準まで変えてしまう双羽黒(北尾)が恐ろしい。
1986年7月場所の千秋楽から2日後、横綱審議委員会が開催されて北尾の横綱昇進が討議された。同年5月場所は12勝3敗(優勝次点、千秋楽結びの一番で横綱千代の富士と優勝を賭けた相星決戦に敗れる)、今場所は14勝1敗(優勝同点、再び千秋楽結びの一番で千代の富士に勝利して同点に並ぶも、優勝決定戦での再戦にて惜敗)と2場所続けて千秋楽まで優勝争いに絡む活躍を見せたことで昇進を決定する動きが見られた。
突然の廃業
当時は、「ファミコンのデータを女将さんに消されたから嫌になって辞めた」という噂を本当のように信じていたが、時代がたつと双羽黒と当時の師匠の関係性に問題があったことが明らかになった。
そして、その場所後に事件はおきます。師匠の立浪親方ともめた末、女将さんにけがを負わせ、部屋を飛び出したのです。その間に親方が日本相撲協会に廃業届を提出、双葉黒は24歳の若さで大相撲を去りました。
この事件の裏には、双羽黒の収入を立浪親方が横領するなど、積りに積もった確執があったとされています。マスコミによって報道された双羽黒の悪行とされる行動の多くは、親方サイドの一方的なリークでした。