ジャイアント馬場やアントニオ猪木と両方とも戦い、70歳近くなっても現役で試合を行っていた。
派手な技を持っているわけではないが、キャラクターと体型で存在感あふれるレスラーだった。
アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)のリングネームで活躍したラリー・シュリーブ(Larry Shreve、本名:Lawrence Paul Shreve)は、カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身のプロレスラー。
生年月日は1941年1月11日とされるが、1936年の生年説もある。ギミック上の出身地はアフリカのスーダン。日本でのニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。
プロレス界を代表する悪役レスラーの一人。来日回数は140を超えており、歴代外国人レスラー最多である。親日家としても知られ、現夫人は韓国人と日本人のハーフである。
全日本プロレス参戦期(1972-1981年)
1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。
馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。PWFヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座などをめぐり、数々の死闘を重ねた。ブッチャー自身、「馬場との闘いはすべてが記憶に残っていて、すべてに満足している」「馬場というライバルがいたからこそ、私は日本の観客がなにを望んでいるか理解でき、彼らを喜ばすための技術を向上させることができた」と語っている。
全日本プロレス 世界最強タッグ決定リーグ戦 激闘の歴史① - YouTube
全日本プロレス 世界最強タッグ決定リーグ戦 激闘の歴史② - YouTube
新日本プロレス参戦期(1981-1985年)
1981年5月、新日本プロレスに移籍。新たにアントニオ猪木を標的とする。移籍の名目は「IWGP参戦」であったが、実際にリーグ戦にエントリーされることはなかった。ブッチャーの移籍は全日本と新日本の外人引き抜き戦争の発端となった(全日本は1981年に報復としてタイガー・ジェット・シンとスタン・ハンセンを引き抜いた)。
全日本プロレス復帰(1987-1996年)
1987年に全日本プロレス復帰。TNTとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦した。どの会場でもブッチャー人気が爆発して、全盛期であった1980年頃を彷彿させる大「ブッチャー」コールも起きるようになった。
1990年代前半にはジャイアント・キマラとのタッグが定着。ベビーフェイスに転向し始め、試合後のお辞儀や空手パフォーマンスで人気を博す。馬場同様に第一線からは退いて「楽しいプロレス」を担当するようになり、前座で観客を暖める役割を担った。
1981年、東映映画『吼えろ鉄拳』に出演。真田広之と共演
志穂美悦子のアクションにもご注目。
「黒い呪術師」に騙されてたわけです。