80年代から大人気だった工藤公康の人物譚
栄養値の高い食事をしたり青汁を飲んだりするなど食事や体調管理には気を遣っていることで有名だが、そうなったのは雅子夫人と結婚してからで、それ以前は毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた。
それが蓄積され88年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、89年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し4勝8敗・防御率4.96という散々たる成績で、戦力外通告を覚悟したという。
同年オフに雅子夫人と結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、雅子夫人が「夫をもう一度野球を出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった。
1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。
そのため、先輩等にこっぴどく酷評されることもあったが、1986年の新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博、渡辺久信と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった。また渡辺とは翌1987年ので春季キャンプの頃、テレビ朝日『ニュースステーション』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。
1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを選択、篠塚を外角へのスライダーでセンターフライに打ち取り胴上げ投手となっている。これについて、工藤を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ、「あの涙は、本当に美しかった」と語っている。
ダイエーからFAで巨人に移籍する際、福岡では工藤の残留を願うファンが署名活動を行い、17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った。
読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えている。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となっており、近年このコーナーを下敷きにした教則本が出版された程である。移籍後も横浜HPへデータ・権利が引き継がれた。
プロ入り後はノーヒットノーランを達成することはなかった。惜しくも逃した試合として1986年7月13日、1999年9月11日のいずれも近鉄戦で前者は9回1死まで完全試合、後者は8回までノーヒットノーランに抑えながら、2試合とも鈴木貴久に本塁打を打たれた。
子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。
横浜時代のチームメイトだった加藤康介は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘振りを讃える発言をしている。
身売りした阪急、南海からの勝ち星のある最後の現役選手でもあった。
若いころはアイドル顔負けの人気とヤンチャな生活っぷりも、その後はストイックなまでに肉体をコントロールして大投手への階段をのぼっていきました。