【工藤公康】アイドル顔負けの人気を誇った80年代から「優勝請負人」を経て球界を代表する「鉄腕」と称された現役晩年までを追う。
2016年11月25日 更新

【工藤公康】アイドル顔負けの人気を誇った80年代から「優勝請負人」を経て球界を代表する「鉄腕」と称された現役晩年までを追う。

「工藤公康」と聞いて、あなたはどの球団時代を思い出しますか。私はやっぱり西武時代の工藤が印象に残っています。西武黄金時代を東尾修や渡辺久信・郭泰源・松沼博久らと支えた工藤、その後の優勝請負人としてのキャリア、鉄腕とまで称された晩年まで振り返ります。

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「アイドル~優勝請負人~鉄腕」工藤公康

所属した西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制...

所属した西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制覇したことから、優勝請負人と呼ばれた工藤公康

2015年には、監督就任1年目となる福岡ソフトバンクホークスの監督としてもリーグ制覇(2015.10.1時点)

江川卓が絶賛する工藤公康の投球フォーム

江川卓をもってして「小学生が真似るべきは工藤投手のフォーム。まさにお手本」と言わしめる程、多くの解説者に賞賛される投球フォームを持つ。足が胸につく程にまで上げるのが特徴。工藤は、雑誌の付録の江夏豊など往年の名投手の投球フォームの分解写真(右投手なら鏡に映したという)を参考にし、子供の頃に礎を完成させた、と語っている。辻内崇伸など若い投手にも工藤のフォームを参考にした投手は多い。

工藤の特徴は、大きなカーブと優れたコントロールにある。高校時代からこのカーブはすぐにでもプロに通用すると高く評価されていた。このカーブが投げられるようになった理由を、この夏の甲子園の間の練習中に、何の気なしに親指をボールに立てて投げたら大きく曲がるようになった、と当時のテレビで話していた。

工藤の球種は主にストレート・カーブと少ないが(歳を重ねる事にスライダー、フォーク、シンカー、カットボール等は投げるように)、工藤は「ストレートとカーブだけではプロは抑えられません。でもそれぞれを何種類か持っていればいいんです。要は緩急をつけることです。」と語っており、ストレートは130km/h台後半と140km/h台後半、カーブは100、110、120、130km/h台を使い分けていたという。また、ストレートの最速は149km/h。

20代後半に故障して科学的トレーニングで復活を果たした経験を持つことから、ウエイトトレーニングや「骨格の正しい動き」などの重要性を主張している。日本プロ野球におけるこの分野の先駆者でもある。トレーニングと平行してアフターケアにも力をいれており、専属のマッサージ師と契約している。また、40歳前後でフォークボール(スプリット)やスクリューボールを習得するなど、年齢を全く感じさせない。身体への配慮、野球への探究心が、40歳を超えても好調時は146km/h、不調の2006年も140km/h前後を計測させた。

工藤公康 その1(西武時代) - YouTube

工藤公康 1983・86日米・87・88日米・90・94年

工藤公康 その2 1997・99・00 - YouTube

工藤公康 ダイエー時代の1997・99年と、巨人移籍1年目の2000年

工藤公康のキャリア「プロ入り前」

名古屋電気高等学校時代は山本幸二とバッテリーを組んだ工藤公康

名古屋電気高等学校時代は山本幸二とバッテリーを組んだ工藤公康

名古屋電気高等学校時代は山本幸二とバッテリーを組み、1981年の第63回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4-0)。チームをベスト4に導いた。
同年のドラフト会議では、熊谷組への就職を発表しプロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武ライオンズが6位で強行指名した。
入団時の経緯については、管理部長の根本陸夫が主導して指名、入団にこぎつけたとされ、俗に「根本マジック」、「球界の寝業師」などと称される出来事のひとつであると長年伝えられ、工藤自身もそう思っていたが、2012年に週刊文春で工藤が2011年に広岡達朗から聞いた話として語った所によれば、根本は工藤を入団させる事には当時は反対の立場で、積極的に入団させようとしていたのは当時西武の監督だった広岡だったという。

工藤公康のキャリア「西武時代」

西武時代の工藤公康

西武時代の工藤公康

入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から“坊や”と可愛がられ中継ぎで起用された。同年は27試合の登板で1勝1敗、防御率3.41の好成績を残した。広岡からは厳しい指導を受け大きな影響を受けた。この年のパ・リーグのプレーオフに登板し、第2戦では江夏豊と投げ合って勝ち投手になっている。
入団3年目の1984年はわずか9試合の登板に終わった。広岡に命じられアメリカの1A・サンノゼ・ビーズへ留学しメジャーリーグの野球を見たことが転機となり、帰国し宮田征典の指導を受け主力投手となった。
1985年からは本格的に先発に転向した。この年は8勝3敗ながら、初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。
1986年はプロ初となる2桁勝利となる11勝を挙げた。また完投数も10を記録した。日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2Sを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。
1987年は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率とベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。
1988年は前年よりやや安定感を欠き10勝10敗1セーブだったが、11完投を記録し、これで3年連続2桁完投を記録した。
1989年は調子を落とし、4勝8敗2セーブの成績で終わり、中継ぎで登板することもあった。最終的な登板数は33だった。
1990年は故障離脱があったが9勝を挙げた。しかし、1984年以来となる投球回数100未満でシーズンを終了した。
1991年シーズンに自己最高の16勝を上げ復調し、最高勝率を獲得。
1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。
1993年のシーズンは15勝3敗、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。
1994年も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことからFA権を行使。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍した。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。

工藤公康のキャリア「ダイエー時代」

ダイエー時代の工藤公康

ダイエー時代の工藤公康

1995年は12勝5敗、防御率3.64と西武時代と変わらぬ安定感を見せたが、自身初のBクラスを味わった。
1996年は29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げたが15敗を喫して負け越したものの、初の最多奪三振のタイトルを獲得。
1997年は2年ぶり2桁勝利となる11勝を挙げた。
1998年は故障離脱があり、7勝に留まったが、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックスブルーウェーブと同率の3位に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。
1999年はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封した(この試合で稲尾和久(西鉄)の持っていた日本シリーズ通算奪三振数の日本記録を塗り替えた)。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。
工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーは4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。
オフにFA宣言し、一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が決定。4年契約を辞退し、単年契約を結んだ。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。
ダイエーでは投手の柱として活躍すると共に、武田一浩と共に、城島健司を日本を代表する捕手に育てあげた。特にリード面に関しては、試合中にベンチ前でリードの意図について城島に問い詰める場面が度々見られたり、打たれるとわかっていても敢えて城島のサイン通りに投げて打たれ、何故打たれたのかをマウンド上で言って聞かせるなど徹底したものであった。
これについて工藤は「試合の中が一番いいんです。試合が終わった後であの球はああだったこうだったと言っても、もう遅いんですよ。」と語っており、こうした体当たりの指導で城島を育てていった。そうした甲斐あり1999年のシーズン始めには城島に対して「今年一年お前の出すサインには首を振らないから、自信を持ってサインを出せ」と述べていたという。
その年チームは球団初のリーグ優勝・日本一に輝き、工藤と城島のバッテリーはシーズン終了後に最優秀バッテリー賞を受賞。

工藤公康のキャリア「巨人時代」

巨人時代の工藤公康

巨人時代の工藤公康

移籍1年目の2000年は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。7月14日の対ヤクルト戦では、6回まで無四球被安打1で投げ終え、唯一ピンチを迎えた7回1死ランナー1,2塁ではペタジーニ・古田敦也に対し、わずかな目線の動きと素振りの軌道、前の打席までの結果から内角狙いと見抜き、外角低めのストレート3球勝負に出て3球三振に獲った。
当時の監督であった長嶋茂雄はこのピッチングに感動し、次の試合もあるのでと交代を希望した工藤に「工藤、次の阪神戦はいいから、この試合だけ最後まで投げてくれ。これだけのピッチングを見せられて、こんなところで俺は代えられない。ファンの方々に申し訳ない。」と目を爛々とさせて工藤を説得、意気に感じた工藤は9回を投げ切り1-0で完封勝利を挙げ、長嶋茂雄監督からは「2000年ペナントレースのベストゲーム」と称された。
シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。
翌年2001年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わった。
2002年は9勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献する。日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、初回にアレックス・カブレラに先制の適時打を打たれるものの、3回以降はノーヒットに抑え、8回2失点8奪三振の好投。チームはそのまま勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばした。
2003年は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23の成績で終わった。
2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でプロ入り初本塁打を記録、41歳、プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。
2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録(当時)を更新。2005年8月26日の対阪神戦では最年長2桁勝利記録(当時)を更新した。2013年現在では、最年長200勝を含め、いずれも山本昌が記録を更新している。この年は開幕からチームは低迷し、リリーフ陣も不振で先発陣では、ベテランの桑田はこの年未勝利に終わり、エースの上原は調子に波があり、高橋尚成も過去2年ほどの不振ではなかったが、波が激しく、上原と高橋尚成は規定投球回に達したが2桁勝利は挙げられなかった。
工藤自身はこの年は11勝を挙げたが、規定投球回には到達できず、チームの投手陣で規定投球回に到達して2桁勝利を挙げた投手はいなかった。
2006年はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかし、6月~7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩痛も発症し、登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志、山口鉄也、木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。

工藤公康のキャリア「横浜時代」

横浜時代の工藤公康

横浜時代の工藤公康

2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉健の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明している。そして1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。
自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。
マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。
横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー・青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。
年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。
2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。5月23日、対西武戦に登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。
2007年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[11]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。開幕当初は打ち込まれ二軍落ちも経験したが、再昇格以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。
2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム対湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。
2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。
同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎の若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。
この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。

工藤公康のキャリア「西武復帰~引退」

西武復帰後、引退した工藤公康

西武復帰後、引退した工藤公康

2009年11月14日、工藤が「家族会議の結果、西武にお世話になる事に決めた」と明言、16年ぶりに古巣に復帰することになった。デビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用。帆足は「(背番号47は)元々、工藤さんの番号。工藤さんが望むのなら喜んでお返しします」との意向を見せたが、「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」として工藤本人が47番を固辞した。11月16日、背番号は「55」と発表された。
2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実動年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの一発を浴び、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団。

2015年からは福岡ソフトバンクホークスの監督に就任

2015年より福岡ソフトバンクホークスで指揮を執る工藤公康

2015年より福岡ソフトバンクホークスで指揮を執る工藤公康

就任一年目にリーグ優勝(2015.10.01時点)
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