このうち、盛田は3つ目のパターンだった。即ち徴兵こそされなかったものの大学生活に影響が出たのである。
具体的にどのような影響がでたか?
具体的にどのような影響がでたか?
大学に入ったものの、戦争が激化、盛田が在籍していた浅田常三郎教授の研究室は海軍の研究施設に編入されてしまう。
時代は盛田の意志とは関係無しに盛田の周囲で戦争を展開していったらしい。
ここで盛田はなにをしていたかと言うと、教授の手伝いで海軍航空技術廠で勤務していたようである。
そしてそこで、海軍士官からとある情報を得る。
どうも海軍には委託学生制度というものがあって、これに合格すると海軍に就職することができるのだという。
就職といってもやることは学生の時と同じで、つまりやることが同じながら海軍の人間であるという肩書を得ることができるのだ。逆に言えば徴兵されないということである。これは重要なことであった。
ここで盛田はなにをしていたかと言うと、教授の手伝いで海軍航空技術廠で勤務していたようである。
そしてそこで、海軍士官からとある情報を得る。
どうも海軍には委託学生制度というものがあって、これに合格すると海軍に就職することができるのだという。
就職といってもやることは学生の時と同じで、つまりやることが同じながら海軍の人間であるという肩書を得ることができるのだ。逆に言えば徴兵されないということである。これは重要なことであった。
盛田は、迷った末に、これに志願し、大学2年のときに海軍に入っている。とは言っても、以前と同様に大学の研究室に行き、研究を続ける毎日であることは変わりがなかった。ただ、徴兵され前線へ送られる心配はなくなったのだ。
大学卒業後、盛田はそのまま海軍航空技術廠の所属となって勤務する。
そしてとある研究会に派遣された時、運命的とも言える出会いを果たすのであった。
民間の電子技術者としてとある研究分科会のメンバーであった、井深大との出会いであった。
そしてとある研究会に派遣された時、運命的とも言える出会いを果たすのであった。
民間の電子技術者としてとある研究分科会のメンバーであった、井深大との出会いであった。
再会
井深と盛田の間柄、どのような関係だったかについては諸説あることだろうと思う。
ざんねんながら手元には井深側の資料が無い。よって盛田側の資料からこのことを推測するしかないのだが、
ざんねんながら手元には井深側の資料が無い。よって盛田側の資料からこのことを推測するしかないのだが、
盛田は、井深の人柄と技術者としての見識の深さに惹かれるようになり、親しく話すようになっていた。井深のほうも、物怖じせずハキハキと話す盛田をすっかり気にいったのだ。
とある。
一応イーブンな関係であったようにも書かれているが、個人的には盛田が井深に積極的アプローチをかけていったのではないかと推理している。
さて、せっかく出会った2人だったが終戦とそれに関連するごたごたでお互いの居場所がわからなくなってしまう。
盛田家に戦争における人的な被害は薄かったらしい。
父親は健在で働いており、弟たちも軍隊から無傷で帰ってきていた。盛田は大学を卒業したばかりの24歳。急いで家業を継ぐ必要もあるまいということで、盛田は東京工業大学の講師として働くことに決めた。
そんな、上京の準備を進めていたある日のことである。盛田は新聞のあるコラムで意外な人物の消息を知ることとなる。
一応イーブンな関係であったようにも書かれているが、個人的には盛田が井深に積極的アプローチをかけていったのではないかと推理している。
さて、せっかく出会った2人だったが終戦とそれに関連するごたごたでお互いの居場所がわからなくなってしまう。
盛田家に戦争における人的な被害は薄かったらしい。
父親は健在で働いており、弟たちも軍隊から無傷で帰ってきていた。盛田は大学を卒業したばかりの24歳。急いで家業を継ぐ必要もあるまいということで、盛田は東京工業大学の講師として働くことに決めた。
そんな、上京の準備を進めていたある日のことである。盛田は新聞のあるコラムで意外な人物の消息を知ることとなる。
「元早大理工科講師井深大氏が日本橋白木屋の三階に東京通信研究所の看板を掲げ、一般受信機の改造、または付加装置により短波受信機を普及させようと乗り出した……」
盛田は興奮した、と書いてある。
早速井深に手紙を書いた。そして返事も届いた。井深からの返事には、
早速井深に手紙を書いた。そして返事も届いた。井深からの返事には、
「ぜひ会社を見てほしい。経営は極めて苦しく、自分のポケットマネーから給料を支払っている状態で、資金源を探している」
家業
via www.amazon.co.jp
その後、ふたりは東京通信工業株式会社を設立し、それがSONYの前身であることは広く知られている話なので割愛しよう。
最後にひとつだけエピソードを紹介しておく。
話は少し遡り、盛田の大学入学前後の頃になる。
なにやら話を読んでいると、盛田は高校理科に進学し、ついで大阪帝国大学理学部に進んでいる。
造り酒屋の社長であった父親はどう思っていたのか?
最後にひとつだけエピソードを紹介しておく。
話は少し遡り、盛田の大学入学前後の頃になる。
なにやら話を読んでいると、盛田は高校理科に進学し、ついで大阪帝国大学理学部に進んでいる。
造り酒屋の社長であった父親はどう思っていたのか?
息子を跡継ぎとして考えていた父親は、経済学部ではなく理学部に進んだことに失望はしたが、いずれは家業を継ぐものと考えていたので反対はしなかった。
これはすこし甘かった、と言わざるを得ないのではなかろうか。
かつては電子工学が好きで最新情報を読み込み自力で工作までしていた少年であり、それを断ってまで理科に進んだ意志の強い少年である。
しかしそのまますんなりと会社をスタートさせたわけではない。
盛田は父親に、家業は継がずに会社をやるということをきっぱりと伝えなければならなかった。
ここでまたすごい人物が出て来る。そのまま引用してしまおう。
かつては電子工学が好きで最新情報を読み込み自力で工作までしていた少年であり、それを断ってまで理科に進んだ意志の強い少年である。
しかしそのまますんなりと会社をスタートさせたわけではない。
盛田は父親に、家業は継がずに会社をやるということをきっぱりと伝えなければならなかった。
ここでまたすごい人物が出て来る。そのまま引用してしまおう。
井深と盛田は、井深の義父であり元文部大臣だった前田多門とともに、盛田の父親に許しをもらうために愛知の盛田家を訪問する。弟の和昭が家業を継ぐと言ってくれたこともあり、案に相違して、父親は「お前のいちばん好きなことをやりなさい」と許してくれたのだった。
こうして、盛田は井深と共同出資で東京通信工業を設立した。社長は前田多門、井深は専務、盛田は取締役で、時に井深38歳、盛田25歳であった。
この時点で、まだ父親は《いずれは家業を継ぐもの》と考えていたのだろうか。
あるいは戦争があった時点で、ないし弟たちが無事に帰ってきた時点で、電子工学の申し子だった盛田のことを諦める気持ちがちょっとは存在していたのかもしれない。
いずれにせよ元文部大臣が説得に来て、いや大臣だろうが困るものは困るとつっぱねることができる人間は世にそうそうはいなかっただろう。
あるいは戦争があった時点で、ないし弟たちが無事に帰ってきた時点で、電子工学の申し子だった盛田のことを諦める気持ちがちょっとは存在していたのかもしれない。
いずれにせよ元文部大臣が説得に来て、いや大臣だろうが困るものは困るとつっぱねることができる人間は世にそうそうはいなかっただろう。