長友佑都  一心不乱初志貫徹切磋琢磨   前進しか知らぬ熱きサムライ
2020年9月14日 更新

長友佑都 一心不乱初志貫徹切磋琢磨 前進しか知らぬ熱きサムライ

抜群のスピード、運動量、1対1で絶対に負けない強さを持ち、「僕から努力をとったら何も残らない 」と語る長友佑都は、元をたどればボールを持てば誰にも渡さずドリブルで攻め続け、とられると守備に戻らない四国のガキ大将。それがいつのまにか攻めに守りに1番走ってチームに貢献する世界レベルのサイドバックになった。

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春になり2年生になっても、腰は治まるどころか、サッカーはもちろん、自転車や歩行、寝起きでも苦痛を感じるほど悪くなった。
このままではプロのサッカー選手どころか社会人として日常を暮らすことも難しいかもしれない。
医者やトレーナーから医療やマッサージなどの通常のサービスと共にいろいろな情報とアドバイスももらった。
椎間板ヘルニアは、運動選手だけでなく多くの人が悩まされる症状なので治療法やトレーニング法もたくさん存在した。
そして長友佑都は「体幹トレーニング」に出会った。
腹筋、背筋など胴体の筋肉、「体幹筋」の強化すれば、椎間板ヘルニアの再発を防ぐだけでなく、サッカーのパフォーマンスにもプラスだという。
「一生モンの体幹をつくらなアカン」
長友佑都は決めた。
これまでのトレーニングは
「より多く、より重く」
とひたすら過負荷(オーバーロード)させていくものだったが、今回は、ケガを悪化させては元も子もないのでやりすぎは厳禁。
ヘルニアの状態をみながら慎重に行っていった。
食事も、食べるタイミングを気をつけ、いろいろな食材をバランスよく食べるようにした。
1日の終わりは風呂の中で身体を温めながらストレッチ。
ストレッチしながら小さな違和感を見逃さないようにコンディションチェックを行う。
筋肉をはじめとするフィジカルだけではなくメンタルもチェックする。
1日を振り返り、自分自身を見つめ直し、目標と現在位置のギャップを計測する。
「ヨシッ!頑張るぞ」
勇気とチャレンジ精神に満ちた朝を迎えるために静かに自分と向き合う時間は欠かせなかった。
規則正しい生活。
睡眠の質を上げる努力。
小さな努力だったが
「続けないと効果は出ない」
と習慣化させた。
体幹を鍛えるという出口らしきものは見つかったものの、一朝一夕で強くなるわけではなかったし、痛みも減ったり強くなったりした。
懸命にトレーニングを続けても、もしかしたら同じところをグルグル回っているだけかもしれなかった。
弱気になることもあった。
しかしやめるわけにはいかなかった。
「俺はここで終わるような人間じゃないけん」
意識的に強気で前向きでポジティブな考え方、言葉、態度、行動を行った。
きっと苦しければ苦しいほど、人間は成長している。
きっとピンチはチャンス。
もしそうであれば問題は自分の勝利や可能性を信じられるかどうかだった。

大学日本代表

 (2219539)

こうして2006年の初めに椎間板ヘルニアを再発させた長友佑都は、夏にピッチへ復帰。
復帰後3試合ほどで神川明彦監督が
「別格」
というほどのプレーをみせた。
秋の関東大学リーグ戦が始まるころには右サイドバックのスタメンが定着させていた。
10月、法政大学戦で、いつもならパスを出す場面だったが、肉体も気持ちも調子がよかったので
(イケる)
とドリブルを選択。
しかし相手にボールを奪われ、そのまま得点されてしまった。
(やってもうた)
ミスを取り戻そうと奮起したが、プレーは空回りしベンチに下げられた。
これが大学時代、唯一の途中交代となった。
判断ミス、個人のプレーミス、連携ミス・・・目まぐるしく攻守が入れかわり続けるサッカーではミスがつきものだった。
そしてディフェンダーのミスは失点につながる可能性が高かった。
90分間ノーミスでプレーするのは不可能に近い。
積極的なプレーとリスクは比例し、慎重にプレーしてもミスは起こるし、慎重なプレーは消極性を生んでしまう。
「重要なのは何が起きても平常心でいること。
ミスをしても受け入れ、気持ちを切り替え、やるべきことを精一杯やる」
(長友佑都)
2006年冬、長友佑都は、2007年夏にタイのバンコクで行われるユニバーシアード大会に出場する大学日本代表に選抜された。
ユニバーシアードは2年に1度行われる世界大会で「大学生のオリンピック」といわれる。
出場すれば大学限定とはいえ日の丸を背負う日本代表となる。
「マジでこんなチームでプレーしてもエエんか?」
本田拓也(法政)、鈴木修人(早稲田)、兵藤慎剛(早稲田)、鎌田次郎(流通経済)など有名選手と一緒になった代表候補合宿で無名の長友佑都は興奮し
「絶対にメンバーに残ってユニバーシアードに出てやる」
と燃えた。
2007年1月、神川明彦監督は、後輩であり、U-22日本代表コーチだった江尻篤彦に
「どうしてもみて欲しい選手がいるので、だまされたと思って1度プレーをみに来て欲しい」
と連絡。
江尻篤彦は総理大臣杯準々決勝を視察しにいった。
これが長友佑都のU-22代表入りのきっかけとなった。
「江尻がコーチでなければ電話はできなかった。
直接話せる人がそういう立場にいることはなかなかないし、運命だった」
(神川明彦)
 (2219540)

2007年3月、大学日本代表はフランスに遠征。
その中でフランスの強豪プロクラブ:マルセイユと練習試合があった。
相手はBチームだったが、身体能力の高いアフリカ系選手もいて、ガンガンと強く当たってきた。
しかし長友佑都のフィジカルはそれに耐え、それを跳ね返す場面もあった。
1対1で負けなかった上に、得点まで決めた。
こうして初の国際試合で大きく自信をつけることになった。
帰国後、明治大学とFC東京の練習試合があった。
FC東京の左の攻撃的ミッドフィルダーは20歳のブラジル人:リチェーリ・カンタニェーデ・デ・オリベイラ。
一瞬のダッシュ力があった。
右サイドバックの長友佑都はリチェーリをマーク。
ガツガツと体をぶつけてやり合った。
あまりにしつこいマークにリチェーリはイライラし始めた。
(よし!
平常心を失えば絶対にチャンスがくる)
長友佑都は突き飛ばされても
「なんやねん」
とやり返した。
こうしてこのサイドはまるでケンカのような攻防となった。
「明日から練習に参加してみないか?」
試合後、FC東京のスカウトに声をかけられた。
大学3年生にしてプロのチャンスが訪れた。
長友佑都がFC東京の練習に参加したのは2、3日だった。
プロはアップをいれて2時間と練習時間が短く、ボールを蹴るのは1時間くらいだったが、長友佑都は最初のジョギングから全力で取り組んだ。
そしてFC東京のJFA・Jリーグ特別指定選手に認定された。
これにより明治大学サッカー部に籍を置きながら、FC東京でも試合出場が可能になった。
そしてプロ入りに向けて大きな一歩を踏み出した。

オリンピック日本代表

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2007年6月、翌年の北京オリンピックのアジア2次予選の突破を決めたU-22日本代表の反町泰治監督は、マレーシア戦は、主力を温存し新しい選手を試すことにした。
そしてベンチに入る18名の選考合宿に22名を招集したが、長友佑都も含む7名が初招集だった。
2日間の合宿初日は、流通経済大学との練習試合。
長友佑都は前半はミッドフィルダー、後半はサイドバックで出場。
そしてマレーシア戦では右サイドバックとして先発。
前半にダイビングヘッドで先制ゴール。
後半もペナルティエリア内でファウルを受けPKによる3点目呼び込んだ。
結果は残せたが、まだ上にはU-22日本代表の主力選手がいたし、オリンピックまでの1年間でやるべきことはたくさんあった。
しかし目標は1つ。
「オリンピックで勝つ!」
2007年7月、ナビスコカップ準々決勝で、FC東京の選手として途中出場ながらプロデビュー。
明治大学の神川明彦監督にサイドバックに転向させられてから、椎間板ヘルニアをとの闘いを経て、ユニバーシアード、オリンピック、Jリーグとステージをレベルアップさせてきた。
しかし長友佑都の日常は変わらず、目標と課題を明確化し、それに向けて練習、体幹トレーニング、食事、ストレッチ、睡眠を繰り返した。
「今日1日を妥協せずに過ごすこと。
「自分のスタンスにブレがないか確かめながら階段を昇る」
2007年8月、バンコクでユニバーシアード大会が行われた。
4大会連続優勝が期待された日本代表は準々決勝で敗れ5位。
長友佑都は、椎間板ヘルニアが再発したため最後の試合の15分だけの出場に終わった。
帰国後、2ヵ月間リハビリを行った。
その間に北京オリンピックアジア最終予選が始まった。
大学の同級生たちは就職活動を行っていた。
練習もできない長友佑都の心は焦った。
「体脂肪率5%まで鍛え上げたのに、どうして腰が痛み出すんや。
この腰ではプロは無理ちゃうか」
井上博のような教師になることも考え、大学1年生から教職試験に必要な単位を取得していた。
サッカーとの両立は大変だったがやり通した。
井上博が勤めている中学校で教育実習を行う予定だったが、U-22代表候補に選ばれたためいけなかった。
「就活始めたほうがええんとちゃうか」
そう考えてしまう自分にガッカリした。

FC東京

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2007年10月末、リハビリを終えて復帰し、11月にはU-22代表に選ばれたが試合出場はなかった。
「プロで戦うメンタルができていない。
もっと鍛えなくちゃいけない。
身体も技術も、精神面も」」
そんなことを考えているときにFC東京からプロ契約のオファーを受けた。
明治大学卒業後ではなく、2008年から契約したいという。
特別指定選手でなく正式にプロとなれば明治大学サッカー部は辞めなければいけない。
もちろんプロにはいきたかったが、最後まで一緒に戦わず、途中で仲間を捨てて新チームへいくことには罪悪感があったが
「長友、何を悩んでいるんだ。
お前はFC東京にいった方がいい。
日本サッカー界を考えたら当然のことだ」
「俺たちだって嬉しい。
佑都が決めたことなら俺たちは応援する」
神川明彦監督もチームメイトも背中を押してくれた。
神川明彦監督は、長友佑都のプロ入りについて、以前から密かにFC東京と話し合っていた。
「FC東京の練習に参加させたときから、北京オリンピックのこともあるし、4年生のときにプロ契約が結べればいいと思っていました。
長友は勉強も頑張っていたから3年生の間にほとんどの単位が取れていたことも有利に働きました」
こうして長友佑都は、3年生でサッカー部は退部し、大学には籍を残したままプロとなった。
後年、明治大学は卒業し、母親の苦労に応えた。
卒論は「イギリス文化研究」
教育職員免許状取得のために必要なのは教育実習を残すのみだった。

Yuto NAGATOMO 長友佑都 神プレー集 2008-2014 サッカー日本代表 JAPAN ● Samurai Fullback


2008年1月、長友佑都はFC東京でプロ1年目のシーズンをスタートさせた。
FC東京の監督はこのシーズンから城福浩に変わった。
「何事もスタートダッシュ。
何事も最初。
何事も第1印象」
長友佑都は新監督へのアピールも含めて、最初の練習から100%の力を出した。
椎間板に対して体幹トレーニングを行っていたが、
「体幹を支えている尻を強くすればもっと椎間板が安定るんじゃないか」
とFC東京の土斐崎浩一トレーナーにアドバイスを受けて臀部の強化トレーニングも行った。
FC東京に加入後間もなく、8月の北京オリンピックに向けて10日間のオリンピック日本代表のアメリカ合宿に参加。
北京オリンピック日本代表は、24歳以上の選手(オーバーエイジ)3名を含む18名。
この18名に入るべく、長友佑都は、FC東京同様、1対1の強さ、スピード、スタミナという自分の武器で勝負した。
2008年3月8日、FC東京は、ホームの味の素スタジアムで、Jリーグ開幕戦を迎えた。
長友佑都は、前年までレギュラーだった金沢浄を押しのけ先発出場。
3月15日、3月20日も先発出場しポジションを譲らなかった。
国立競技場で行われたオリンピック日本代表 vs アンゴラ代表戦でも先発。
先制点をアシスト。
岡田武史監督は
「前へ上がっていく選手はいるけど戻ってくることもできる長友は、今までいないタイプの選手。
こういう選手がサイドにいたら楽になる」
と評価した。

内田篤人

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4月17日、オリンピック日本代表合宿に招聘され、3つしかないオーバーエイジ枠での代表入りを決めた。
代表の中で同じサイドバックの内田篤人がいた。
長友佑都は1986年生まれ。
内田篤人は1988年生まれ。
2歳差の2人は好対照だった。
長友佑都は、驚異的な身体能力と気持ちの強さでガツガツ守ってガンガン仕掛け我が道を切り開いていく。
内田篤人は、スピードあふれるドリブルと高い技術に加え、ゲームコントロールに長けていた。
「篤人の能力にどれだけ羨んだか。
代表のときも俺が何も考えず好き放題やってるとき、篤人はいつもバランスをとってくれてた。
長友さんの好きにやっていいッスよって。
後輩に気を遣わせてたんやと気づくダメ先輩」
内田篤人は、県大会1回戦負けレベルの中学校に入り、自身が3年生のときは地区予選で敗退し県大会にも出れなかった。
にも関わらず、高校受験制度の変更によってサッカーの強豪であり進学校でもある清水東高校にスポーツ推薦で入学できた。
以後、U-16日本代表早生まれセレクションのスタート、U-16日本代表のサイドバックの選手不足、新しく鹿島アントラーズに就任したパウロ・アウトゥリ監督の新人起用、名良橋晃のケガなど、実力に加え幸運にも恵まれた。
それに比べ長友佑都は、小学校のときに愛媛FCジュニアコースのセレクションに不合格。
中学では不良のマネ事をして、2年生までサッカーに打ち込まなかった。
東福岡高校もスポーツ推薦ではなく一般入試で入学し、朝晩、自主トレに明け暮れレギュラーとなった。
東福岡高校という強豪校のスタメンでありながら、小柄な体格もあって大学のスポーツ推薦にはひっかからず、勉強でも努力して明治大学に入学。
ジュニアコースには不合格。
高校、大学はスポーツ推薦ではなく勉強で合格していた。
内田篤人は、176㎝、62㎏。
アマゾンのカレンダー売り上げランキングでAKB48に次いで2位になったこともある痩身のイケメン。
長友佑都は、171㎝、68㎏、体脂肪率5%の筋肉の塊。
内田篤人は、寡黙だが素直で前向きな姿勢が人の目を引き、選ばれる立場だった。
長友佑都は、華麗なテクニックがない上に小柄なので注目を浴びることはなかったので、ひたすら自分のストロングポイントを磨きアピールした。
内田篤人は、選ばれる立場だったのでアピールする必要はなかった。
選ばれたポジションでいかに活躍するか、チームに貢献するかを考え実行していた。
「どちらかというと自分を知ってもらうことを重視していた。
内田篤人はこういうスタイルでこういうプレーができるよッて。
それは普段の生活でもそう。
オレはいいヤツだから、静かでいいヤツだから話しかけないでって。
僕は(長友)佑都さんみたいにガンガン輪に入っていくタイプじゃないからね。
なるべく目立たないようにしていた。
チームメイトの性格もよくみていた。
コイツは文句いうな。
コイツは人のせいにするなって」
そういう内田篤人は、監督やチームメイトにアピールするのではなく一歩引いたところからチーム全体を客観し、チームのために何ができるか、貢献できるかを考え実直に実行していった。
北京オリンピックで長友佑都と内田篤人は、左右のサイドバックとしてコンビを組んだ。

日本代表

 (2219504)

2008年5月18日、長友佑都は、日本代表(年齢制限なしのフル代表)合宿に初招集された。
イビチャ・オシムが脳梗塞で倒れ、岡田武史が後を引き継ぎ監督となっていた。
日本代表として集まる選手は、練習やトレーニングだけでなく食事や日常の態度など、すべての面で意識が高く、その放つオーラに圧倒された。
「ずっとこのグループの一員でいたい」
自然と欲が出た。
合宿はわずか数日だったが貴重な時間となった。
「ワールドカップ」という、これまでは遠すぎてボンヤリしていた目標も少しだけ鮮明になった
その後、長友佑都はオリンピック日本代表としてフランス遠征に参加する予定だったがキャンセルし、5月24日のキリンカップ、コートジボワール戦に先発し、日本代表デビュー。
試合前、日本代表の10番、中村俊輔に
「1度ボランチに当ててから大きく俺のほうに蹴れ。
顔を上げて遠くをみるようにすればいい」
とアドバイスされた。
6月、日本代表は、ワールドカップ南アフリカ大会アジア3次予選で、オマーン、タイ、バーレーンと同組になり、ホーム&アウェイ方式で計6試合行い、4勝1敗1分でグループ1位で通過した。
日産スタジアムでのオマーン戦で長友佑都は先発し、負傷交代したが、チームは3対0で快勝。
5日後、敵地で行われた試合は、気温36度、湿度47%の中で行われ、前半11分にオマーンに先制された。
しかし後半8分、遠藤保仁がフリーキックを決めて、1対1に終わった。
長友佑都はオマーン戦の負傷で、日本代表のタイ遠征で試合には出場できなかった。
7月、Jリーグ、鹿島アントラーズ戦で復帰。
なんとか北京オリンピック代表発表には間に合い、オリンピック日本代表として北京行きのチケットを手に入れた。
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