長友佑都  一心不乱初志貫徹切磋琢磨   前進しか知らぬ熱きサムライ
2020年9月14日 更新

長友佑都 一心不乱初志貫徹切磋琢磨 前進しか知らぬ熱きサムライ

抜群のスピード、運動量、1対1で絶対に負けない強さを持ち、「僕から努力をとったら何も残らない 」と語る長友佑都は、元をたどればボールを持てば誰にも渡さずドリブルで攻め続け、とられると守備に戻らない四国のガキ大将。それがいつのまにか攻めに守りに1番走ってチームに貢献する世界レベルのサイドバックになった。

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秋になると3年生が引退し、長友佑都たちがサッカー部の中心となった。
井上博は
・自分づくり
・仲間づくり
・感謝の心
をサッカー部の3本柱としたが、長友佑都のサッカーは相変わらず王様スタイルだった。
ボールを持ったら離さず、どこまでもドリブルで勝負。
ボールを奪われても守備に戻らなかった。
井上博は
「仲間のために走れ」
と注意したが、チームメイトは
「俺らが守備を頑張るからお前は点を取ってくれ」
といってくれた。
試合で負けると井上博は問うた。
「なんで負けたと思う?
どこがアカンかったと思う?」
部員たちはそれぞれ個人の課題、チームの課題をいい合った。
「よっしゃ、わかった。
足りひん思うところは練習したらエエだけや。
練習すれば伸びるんや。
あとはお前らが決めろ」
そして部員は休み時間に集まってメニューキャプテンを中心に次の1週間の練習プランを立てた。
自分で足りないところを見つけ、それを補うためにどんな練習をすればいいのか考えて練習するというやり方は、やる気を大きくした。
練習前からやることがわかっているので素早く練習に入れ、効果と結果も出た。
西条北中学サッカー部はドンドン強くなり
「全国大会出場」
が目標となった。
そのためには西条市で1位になり、愛媛県で1位にならなくてはならない。
西条北中学サッカー部は意気込みであふれていた。
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3年生になる前の春休み、大阪に遠征し、ガンバ大阪ジュニアユースと練習試合を行った。
やはりプロの下部組織は強く西条北中は負けてしまった。
しかも相手はレギュラーチームではなく、しかもしかも本気で戦っていなかった。
「完全にナメられた。
あいつらチャラチャラ遊び半分やった。
遊ばれただけや」
毎日毎日一生懸命サッカーをやってきた。
手を抜いたことはなかった。
なのに本気でないサブチームに負けた。
長友佑都は思い知った。
上には上がいることを。
自分が王様でいられる場所がいかに狭くて小さいかを。
その後、西条北中サッカー部は、西条市予選の決勝で負けた。
全国大会出場どころか県大会にも出られなかった。
「もっともっと強くなろうや」
自然と練習開始時間が早まり、終了時間は遅くなり、練習量は増えた。
1本のパス、1本のシュートに気持ちを込めて蹴り、気を抜いたプレーをすれば、必ずチームメイトから怒鳴り声を浴びた。
「お前、ホンマに気合い入れてやってんのか!」
「なんであんな軽いプレーしとんじゃ!!」
「そんなこというお前かてヘボいミスしとったやないか」!
練習試合のハーフタイムではベンチで殴り合い寸前の叱咤し合いが行われた。
7月、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会の予選が開始。
全国の中学校のサッカー部とJリーグ、JFLの下部組織、クラブチームが参加するが、本戦には32チーム、四国からは2チームだけしか進めない。
長友佑都たちにとって最後の大会だったが西条北中サッカー部は県予選で敗退した。
「県3位という成績を恥じることはない。
お前らは必死になって練習に取り組んだ。
努力したことに価値があるんや」
井上博はそういって笑った。

駅伝

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「駅伝やるで」
最後の試合が終わった直後、井上博はサッカー部の3年生で駅伝チームをつくるといい出した。
「なに無茶なこというてるねん」
長友佑都は反対した。
ひたすらドリブルで攻め、ボールを奪わると守備に戻らなかったのは、王様気質だけでなくスタミナ的な問題もあった。
戻りたくても体力的に戻れなかったのだ。
サッカー部で長距離を走るときも密かにサボった。
校外を3㎞走るときは、勢いよく校門を出て、サッと横道に入って隠れた。
顔や頭を水で濡らし、チームメイトが戻ってくると集団に加わった。
2年生時、学校のマラソン大会の成績は100人中50番台だった。
「佑都、お前な、上を目指したいんやろ。
だったら走れるようにならなアカン。
スタミナつけんかったら上にはいかれへんぞ」
井上博にいわれ、プロになるため強豪高校に入るつもりだった長友佑都は腹をくくった。
(やるしかないやろ)
次の日からハードなトレーニングが開始された。
400m×10本
3㎞×2本
・・・
1日に15㎞以上走った。
あまりにキツい練習に疲労骨折を起こす者もいた。
「そんなに走ったら危険」
という教師もいたが、井上博も部員もそんな声には耳を貸さなかった。
「やると決めたらやるしかない」
とにかく熱い集団だった。
長友佑都も燃えた。
チーム練習のほかに自主トレを行い、走って走って走りまくった。
「上に行くには走れるようになるしかない」
スイッチが入ると止まらなかった。
目の前に目標を置いて、それに向かって追い込んでいく。
その作業、努力が嫌いじゃないということ、努力の面白さを知った。
「佑都、どないしたん。
めっちゃ速くなってるやんか」
井上博もチームメイトも驚いた。
あんなに走るのが遅かった長友佑都が1番前を走っていた。
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夏の終わりから走り始め、冬、駅伝大会を迎えた。
長友佑都のシューズは、数ヵ月の練習でスリ減っていった。
踵の部分がはがれペラペラになると、そこをハサミで切ってまた走った。
だんだんはがれてくる部分が増えて、大会前には靴の真ん中くらいまでゴムがない状態だった。
「危ないで、貸そうか?」
「新しいの買おうか?」
周囲の親切を長友佑都はキッパリ断った。
「ええねん。
この靴で走りたいから」
同情されたくなったのではない。
ただただこの爪先の部分しかゴムがないシューズで走りたかった。
ボロボロの靴には長友佑都のいろんな気持ちが詰まっていた。
共に努力した大切な仲間たっだ。
そして駅伝大会で長友佑都はアンカーで仲間が継いだタスキを背負い走った。
チームは3位になり、長友佑都は区間賞をもらった。
そして学校のマラソン大会は1位になった。
「僕は、夢や目標をかなえることだけが必ずしも成功ではないと考えている。
大切なのは、叶えるために日々努力すること。
現在の自分に満足せず、何が足りないのかを探し、それを伸ばすトレーニングをする。
そのプロセスが1番大事だと思い、僕は生きている。
夢が実現しなくても努力した後には成長した自分が待っている。
『こんなことやって意味があるのか』
『このへんでええかな』
そんな弱い心を振り切り挑戦することが大事。
そういう意味で中学時代の駅伝は、僕に努力の成功体験を与えてくれた」

「お前らヘボいんじゃ!!」

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長友佑都は、サッカー選手としてまったく無名だったが、サッカー強豪高校へ進学したいと考えていた。
具体的には、長崎の国見高校、鹿児島の鹿児島実業高校、福岡の東福岡高校。
いずれも全国高校サッカー選手権大会で優勝し、多くのJリーガーを輩出していた。
中でも、1997年、1998年と全国大会2連覇を果たした東福岡高校に魅かれていた。
しかし東福岡高校は私立で授業料は公立より高額な上に、他県の高校に行くとなると下宿費なども必要になる。
長友佑都は
「東福岡に行きたい」
といえなかった。
しかし井上博も母親も長友佑都の背中を押した。
「推薦でお願いできる可能性もあるよ」
「お金のことなんかどうにでもなるんやし心配する必要はないから」
母方の祖父:吉田達雄は日本競輪学校の1期生で、その弟の吉田実は日本競輪界で一時代を築いたといわれる名選手だった。
また父方の祖父も明治大学出身の元ラガーマンだった。
「私思うんよ。
佑都は絶対アスリートに向いているって。
だからその道で勝負してほしいんよ。
もしアカンかっても別にかまへんし。
挑戦せな、失敗もできひんやろ」
こうして長友佑都は東福岡高校に行くことを決めた。
2002年3月、サッカー部で卒業する3年生を送り出す試合が行われた。
試合後、全員で輪になって
「♪負けないこと、投げださないこと、逃げ出さないこと、信じぬくこと、ダメになりそうなとき、それが1番大事♪」
と大事MANブラザーズバンドの「それが大事」が歌われた。
輪が崩れ、それぞれ部室に向かったりグラウンド整備や練習の後片づけを始めた。
「先生、1人でトンボかけたいんやけど」
長友佑都の申し出に井上博はうなずいた。
トンボを引っ張っていると3年間のいろいろなシーンが頭をよぎった。
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春休みから練習に参加するため、長友佑都は中学校の卒業式の後、すぐに福岡に出発することになった。
卒業式の後、長友佑都が校門にいく、井上博やサッカー部員が見送るのために待っていた。
「がんばれよ」
「お前もな」
1人1人とハイタッチしたり、握手をしたり、肩を叩き合ったり、小突かれたりしながら、花束や手紙、写真などをたくさん受け取った。
長友佑都は立ち止まることができなかった。
学校の外へと向かう足は止められなかった。
「佑都。
頑張ってくるんやで」
という声が背中に突き刺さったときが限界だった。
「こんなん、いらんわ!
お前らヘボいんじゃ!!」
花束を放り投げ、手紙や写真も破り捨て叫んだ。
「絶対プロになるんや!
俺はビッグになってやる!!
長友革命や!!!」
松山空港まで送りに来てくれた家族にも涙はみせなかった。
手荷物検査を通り機内へ入りベルトを締め、離陸のアナウンスが流れたとき、初めて頬に涙が伝った。
「本当に申し訳ないことをしたという気持ちもある。
だって感情に任せた行動とはいえせっかくの手紙しゃ写真を破り捨てたのだから・・・・
でもそれを後悔することはない。
逆に良かったと思っている。
見送ってくれたみんなの思いが込められた手紙や写真。
うれしかった。
愛情や友情がビンビン伝わってきた。
温かい空気に包まれ幸せだった。
でももう1人の自分が囁く。
甘えたらアカン。
活躍するまでここへは戻れない。
全力で努力しかないと、
福岡へはなにも持っていきたくなかった。
大切なものは心の刻み込まれているから必要なかった。
あんなことをしたのだから中途半端な気持ちでは生きられない。
愛媛を出たあの日から、僕は毎日、毎日、そう思い闘っている」

東福岡高校

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東福岡高校は博多駅から徒歩15分くらいのところにあった。
全校生徒数2000人超のマンモス校で、サッカー、野球、ラグビーなど全国大会で活躍する部がいくつもあった。
校舎の隣に学生寮:志学館があり、長友佑都はそこに入った。
本業である学業でいくつかコースがあり、特進、特進英数など偏差値の高い大学を目指すコースもあったが、長友佑都は多くの生徒と同様、進学コースを選んだ。
高校を卒業してすぐにプロになれるかどうかわからないので、大学に進学することも視野に入れていた。
東福岡高校サッカー部は全学年合わせて150人。
福岡だけでなく九州、中国、関西、さまざまな地方から集まっていた。
毎年100人近く新部員が入るが、厳しい練習や競争についていけず退部する者も多かった。
初練習の日は雨だった。
「愛媛県西条北中学から来ました。
長友佑都です。
ミッドフィルダーです」
とまずは大きな声で挨拶。
そして
「今日は雨も降っているし走ることにするから」
とコーチに練習メニューを告げられ、3年間をサッカーに捧げようと誓っていた長友佑都は、先輩も後輩も新入部員も関係なくグングンスピードを上げて走り、トップでゴールした。
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サッカー部の練習は、レギュラーのトップチームを筆頭に、レベル毎にグループ分けされ行われた。
長友佑都は下位グループに属し、練習はグラウンドの端っこの狭いエリアでのトレーニングが中心で、ボールを蹴る時間は少なく、上位チームのボール拾いをすることもあった。
先輩たちはみんなうまかった。
同級生もうまい選手が多かった。
長友佑都は、サッカー部の中でも身長が低く、体も細く、器用なテクニックもなかった。
「レギュラーになるための道のりは長いものに思えた。
でも目指すところがどんなに遠く離れていても這い上がっていくしかない」
走るときは誰にも負けないようにした。
先輩が練習の前後にストレッチをしているのをみる、すぐにマネをした。
全体練習後は自主練習を行った。
1年生がボールを思い切り蹴れるのは、このときしかなかったので夢中で蹴った。
2002年12月、トップチームが全国大会出場を決めた。
東福岡高校サッカー部には、全国大会には22名のレギュラーとは別にチームから数名の1年生がサポーターとして帯同する慣習があり、長友佑都はそのメンバーに選ばれ上京した。
はた目には雑用に選ばれただけだが、部員にしてみればサポーターに選ばれたということは努力や実力が認められた証拠であり栄誉なことだった。
またレギュラーと同じ新しいユニフォーム、ジャージ、練習着、バッグ、グラウンドコートが配られることもうれしかった。
試合はグラウンドではなくスタンド観戦だが、長友佑都は声の限り応援した。
東福岡高校は準々決勝で滝川第二高校に破れベスト8に終わった。
悔し涙を流す先輩をみて全国大会が長友佑都の目標となった。

筋トレ

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