サンフレッチェの外国人助っ人における特徴は多国籍主義&安年俸が基本。いわゆるビッグネームではなく、いぶし銀の活躍が見込める選手を狙っての獲得が多かった。
イワン・ハシェック
チームが地味だったためか、活躍の割りにあまり目立たなかったハシェック。高木との2トップは他のチームの脅威となっていた。
イワン・ハシェック(Ivan Hašek, 1963年9月6日 - )は、チェコ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元チェコスロバキア代表。カタール・スターズリーグのカタールSC監督。
1994年、Jリーグ・サンフレッチェ広島[1] へ入団。高木琢也と2トップを組みパベル・チェルニー、盧廷潤ら攻撃陣と活躍[2]。同年のファーストステージ制覇に大きく貢献した。この年に挙げたシーズン19得点は、2012年に佐藤寿人が更新するまでの長い間、広島所属選手のJ1におけるシーズン最多得点記録だった。
ハシェック 1995 サントリー前半ゴール集 - YouTube
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盧廷潤(ノ・ジュンユン)
Jリーグでプレーする韓国人選手は大勢いるが、その先駆けとも言える存在がこの人、盧廷潤である。韓国出身選手初のJリーガー。そしてサンフレッチェ所属選手として初めてW杯本大会出場を果たした選手でもある。
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盧 廷潤(ノ・ジョンユン、노정윤、1971年3月28日 - )は、大韓民国出身の元サッカー選手。元韓国代表。仁川広域市出身。Jリーグ初期はノ・ジュンユンの読みで登録されていた。元韓国女子代表選手の[1]劉永玉[2] は妻。韓国代表として初めてJリーグでプレーしたサッカー選手。
1992年度行われたKリーグドラフトで油公(現済州ユナイテッドFC)に指名されたが、以前からオファーの届いていたJリーグのサンフレッチェ広島に入団[注 2]。韓国内でも将来の中心選手として期待が高かったため、Jリーグ入りは韓国国民から強い非難を受けた。しかしJリーグ開幕時から不動のレギュラーの座をつかみ、1994年のサントリーシリーズ(1stステージ)優勝に貢献。なお、本人はワールドカップアメリカ大会出場のため、チームが優勝を決めた同年6月11日のジュビロ磐田戦を含め、第1ステージ終盤の5試合はチームを離れた。
盧廷潤および大木ヒーローインタビュー
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トニー・ポポヴィッチ
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アンソニー・ポポヴィッチ(Anthony Popović、1973年7月4日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の元プロサッカー選手。Aリーグ・ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC監督。サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。
1997年6月、トムソンがJリーグ・サンフレッチェ広島監督に就任、それに伴いポポヴィッチも入団する[1]。守備の要[2] として活躍、上村健一およびハイデン・フォックスと組む3バックは当時のJリーグでも屈指の守備陣だった[3]。一時はキャプテンを務め、PKも蹴っており[4]、監督やチームにとって絶対的な存在だった。 2001年、ヴァレリー・ニポムニシに監督が代わると2バック気味の4-3-3に戦術変更したなかでも主力として活躍した。
Tony Popovic - YouTube
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ミハエル・ミキッチ
現在の広島に在籍する外国人選手。
奥さんが美人で有名。地元の広島では目撃談が多数。
奥さんが美人で有名。地元の広島では目撃談が多数。
ミハエル・ミキッチ(Mihael Mikić、1980年1月6日 - )は、クロアチア・ザグレブ出身のサッカー選手である。Jリーグ・サンフレッチェ広島所属。
2009年より、Jリーグ・サンフレッチェ広島へ完全移籍した[1]。すぐに右サイドのレギュラーに定着、同シーズンリーグ4位躍進に貢献した[2]。
上記のクラブ遍歴を経て選んだJリーグのレベルを高く評価する一方で、日本人選手の安易な海外志向に疑問を呈している [3]。
広島に加入以降は怪我による離脱はあるものの右サイドのレギュラーを確保し続けており、2012年・2013年には広島のJ1連覇に貢献。2014年には在籍が6年目を迎え、1993-1997年の5年間在籍した盧廷潤を越えて、広島の外国籍選手では史上最長在籍の選手となっている。
2013.8.17サンフレッチェ広島vs 名古屋 ミキッチゴーール! - YouTube
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