長友佑都  前進しか知らなかったアスリートが東日本大震災 から学んだ境地「心に余裕をもつこと」
2020年9月20日 更新

長友佑都 前進しか知らなかったアスリートが東日本大震災 から学んだ境地「心に余裕をもつこと」

抜群のスピード、運動量、1対1で絶対に負けない強さを持ち、「僕から努力をとったら何も残らない 」と語る長友佑都は、インテルという超ビッグクラブに入った。人々は「シンデレラストーリー」と称えた。そしてイタリアで日本で大地震と津波が起きたことを知った長友佑都は、傷ついた人たちを勇気づけられたらと必死にプレーしたが、逆に彼らから人間の強さを学ばされた。その後、インテルでお辞儀パフォーマンスを定着させ、キャプテンにまでなった。

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長友佑都プレー集 2015/2016 【オフェンス編】 インテル Yuto Nagatomo Attacking Skills

「とにかくスピードを上げなアカンと思う」

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2009年2月、ワールドカップ最終予選が開始。
アジア3次予選を通過した10チームが2つのグループにわかれ、ホーム&アウェイ方式で計8試合行い、各グループ上位2チームがワールドカップ出場の権利を得る。
(3位はプレーオフに回る)
日本は、バーレーン、ウズベキスタン、カタール、オーストラリアと同組になった、
そして最大のライバルと目されるオーストラリアを0対0で引き分け。
バーレーン戦は1対0で勝利。
3試合を残して、ワールドカップ大会出場まであと1勝と迫った。
6月、ウズベキスタン戦の前半早々に岡崎慎司がゴールを決めた。
長友佑都は激しく体をぶつけつつ高い緊張感で攻守のバランスを保った。
「守りの気持ちだけで逃げ切ることはできない。
チャンスがあれば攻撃に転じて追加点を奪おうと意識もあった」
日本はアウェイ戦を1対0で勝利。
ワールドカップアフリカ大会出場を決めた。
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その後、オランダ遠征が行われ、身体能力が高いガーナ、体が大きく屈強なオランダとの親善試合があった。
ガーナには4対3で勝ったが、オランダには0対3で負けた。
オランダ戦で長友佑都は、ペナルティエリア内でボールを受けたロビン・ファン・ペルシをマーク。
ファン・ペルシは、自分の足元深くにボールを置いた。
(その場所からはすぐにシュートは打てない)
と判断した長友佑都は強引に奪いにいかず、シュートを打つためにボールを置き直す瞬間を待って奪おうとした。
しかしファン・ペルシは置き直すことなく、いとも簡単にクルッと反転しシュートを放ちゴールを決めた。
長友佑都は、その反転スピード、テクニック、キレのよいフィジカル、今まで体験したことのない世界レベルを痛感した。
帰国後、
「瞬発力、ダッシュ力、とにかくスピードを上げなアカンと思う」
とさっそくFC東京の土斐崎浩一トレーナーとスピード強化に取り組んだ。
100mを何秒というスピードではなく、できるだけ早くトップスピードを出せるスピード、強靱でキレのあるスピード、そういったサッカーに実戦的なスピードががあれば高いテクニックも封じられると考えた。
Jリーグと日本代表で戦いながらハードトレーニングを続けた。
チームの全体練習で全員が一緒に走るときも1人、ペースを上げて走った。
チームの輪や雰囲気づくりも大切だが、ワールドカップまで時間がなかった。
周囲の空気に流されてしまうわけにはいかなかった。
2009年11月、ナビスコカップの決勝で、FC東京は川崎フロンターレと対戦。
右肩を痛めていた長友佑都は後半途中から出場した。
そしてFC東京は2対0で勝利。
これで海外移籍のために果たすべき約束は、あと1つ、「ワールドカップ出場」だけになった。
12月、ワールドカップの抽選会が行われ、日本は、カメルーン、オランダ、デンマークと同じグループリーグになった。
グループリーグで総当たり戦を行い、上位2チームが決勝トーナメントに進出できる。

ワールドカップ南アフリカ大会 エースキラー

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2010年、ワールドカップイヤーとなり日本代表は1月下旬からキャンプを行った。
2月2日、ベネズエラ戦を0対0で引き分け。
その後の東アジア選手権(東アジア4カ国で行う国際大会)では、ホーム開催にも関わらず、中国、香港、韓国相手に1勝1敗1分で3位。
4月7日のセルビア戦では日本は800本ものパスをつないだが、組織的に守りを固めたセルビアのカウンター攻撃を受けて失点を重ね、0対3で惨敗。
「ワールドカップ ベスト4」
を目標に掲げる日本代表に批判と悲観論が高まった。
5月10日、ワールドカップの代表メンバーが発表された。
長友佑都はテレビで自分の名前が読み上げられるのをみた。
小学5年生のとき、フランス大会で初めてワールドカップと遭遇して以来、2002年の日韓大会、2006年のドイツ大会と夢中でみてきた。
そして2010年にその舞台に立つことになったのである。
5月24日、埼玉スタジアムでワールドカップに向けた国内最後の試合、韓国戦が行われた。
韓国の右ミッドフィルダーは、イングランドのマンチェスターユナイテッドでプレーするパク・チソンだった。
日本の左サイドバックの長友佑都としては絶対に負けられない相手だった。
しかしパク・チソンはドリブルからシュートを放って、前半早々に先制点を決めた。
その後も日本はまったく自分たちのサッカーができなかった。
後半、日本は攻めたが、試合終了間際に韓国のカウンター攻撃を受けPKを与えてしまい、0対2で敗れた。
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試合翌日、長友佑都は岡田武史日本代表監督に呼び出された。
「長友です」
「入っていいぞ」
岡田武史監督は、試合の映像を編集したDVDをみていた。
「お前は前は守備から入って攻撃というプレーをやっていたじゃないか。
そのプレーはチームにとって非常に大きい効果をもたらしていた。
ワールドカップでもお前の守備は武器になるし、それを続けてほしんだよ」
長友佑都はハッとした。
(攻撃のことを考え過ぎていたのかもしれない)
ゴールを決めたり、得点に絡んだり、目立つプレーを求めている自分に気づいた。
(ワールドカップではしっかり守備をする。
その上で攻撃に出ていく)
自分の仕事を再認識した。
「初戦のカメルーン戦だけど、お前にエトーをみてもらいたい。
エトーが左でプレーしたら、右サイドバックで出てもらう」
岡田武史監督はカメルーンのエース:サミュエル・エトーのマークを指示した。
日本代表はスイスで合宿を行った。
「俺たちは下手くそなんだから、もっと泥臭くやらないと勝てない」
ミーティングで闘莉王(トゥーリオ、田中マルクス)が口火を切り、全員が思っていることを話した。
ベテランも若手も、海外組も国内組も、レギュラーも控えもない。
誰もが
「勝ちたい」
そして
「このままじゃダメだ」
「なんとかしなくちゃ」
と思っていた。
「勝つためには・・・・」
自然と話題は戦術面にもおよび
「相手のサイドバックにボールが入ったらプレッシャーへいってくれると守りやすい」
と長友佑都はいった。
選手数人が集まって話すことはあったが、全員で話すことに大きな意味があった。
立場の違いはあれ目指すものは同じ。
団結するきっかけとなった。
その後、イングランドに1対2、コートジボワールに0対2と2連敗。
「人間万事塞翁が馬」
「人間は逆境のときこそ真価が問われる」
岡田誉司監督はいった。
そして戦い方をガラッと変えた。
それまで中村俊輔を日本代表の中心に据えて、線からのプレッシングを重視したアグレッシブな戦術から、守備的な戦術にシフト。
その過程で中村俊輔は長年守り続けてきた日本代表のレギュラーポジションを失い、川口能活、楢崎正剛、稲本潤一、中村憲剛、玉田圭司らも先発から外された。
しかし彼らは練習で手を抜くことはなかった。
紅白戦後はレギュラーに
「もっとこうすればいい」
とアドバイスを送った。
チームのためにやれることは何か考え、試合に出る選手を支え、励まし、力づけた。
だからチームは不安になることはなかった。
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6月14日、ワールドカップ南アフリカ大会で日本代表の初戦、カメルーン戦が行われた。
長友佑都は左サイドバックで先発。
「サミュエル・エトーに仕事をさせないこと」
が最大の仕事だった。
とにかくエトーに前を向かさないようにし、ボールを持ってゴールに向かわれても慌てず自分の間合いで対応することを心がけた。
日本は、本田圭佑を1トップ、阿部勇樹を1アンカーに1-4-1-4-1。
本田圭佑以外、全員守備という奇策に近い守備的フォーメーション。
攻撃は、カメルーンはディフェンスラインに弱点があったので、その裏を突いた。
守備陣だけでなく攻撃陣も守備に参加するため、攻撃のチャンスは少なかった。
日本代表は、労を惜しまず走り続けた。
泥臭く戦うしか勝機はなかった。
前半39分、松井大輔のクロスボールを本田圭佑がゴール。
日本は先制点を守り続け1対0で勝利した。
「守って守って守り切った。
そんなサッカーはッカッコ悪いという人もいるだろう。
でも日本が勝つにはこの戦い方しかなかった。
カメルーン戦の勝利はグループリーグ突破を有利にしただけじゃない。
ホーム開催以外、3大会出場し初の勝ち点3という日本サッカーに新たな歴史を残しただけでもない。
この勝利で日本代表は本当にひとつになれた。
ひとつになること、ひとつになれることは日本人のストロングポイント。
この強みを磨き、活かすことで世界と戦える」
(長友佑都)
6月19日、第2戦、オランダ戦でも、途中出場したエルイェロ・エリアに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなど長友佑都はエースキラーとして活躍した
また同大会からFIFA(国際サッカー連盟)が導入したレーザー計測によると、長友佑都ののトップスピードは、カメルーン戦で30.13km/h、オランダ戦では26.70km/hと、両試合共、対戦相手を含めて最速を記録した。
しかし日本はオランダに0対1で敗退した。
「ヴェスレイ・スナイデルはわずかなチャンスでキッチリとゴールしている。
しかし日本はチャンスがあったのに決め切れない。
それが世界との差である」
(長友佑都)
6月24日、デンマーク戦。
日本は引き分けでも決勝トーナメントに進出できるが、勝利を目指した。
前半17分に本田圭佑が、前半30分に遠藤保仁がフリーキックで得点。
後半も途中出場した岡崎慎司が3点を決めた。
日本は3対1で勝ち、決勝トーナメント進出を決めた。
この時点で世界のベスト16に入った。
6月29日、決勝トーナメント1回戦、日本 vs パラグアイは、120分の延長戦を終えても0対0でPK戦になった。
日本の3番目、駒野友一が蹴ったボールがゴールバーに当たり外れた。
その後、パラグアイの4番目が決め、日本の4番目、本田圭佑も決めた。
そしてパラグアイの5番目、オスカル・カルドーソが蹴ったボールがゴール左に決まった。
日本代表は敗退した。
「ありがとう」
ピッチで岡田武史監督にいわれ、悔し涙を流しながら長友佑都は答えた。
「ありがとうございました」

イタリア・セリアAへ

 (2218758)

7月9日、FC東京とイタリアのサッカーリーグであるセリアAに所属するチェゼーナが話し合い、合意した。
セリアAには外国人選手枠に制限があったが、新しくチェゼーナの監督になったマッシモ・フィッカデンティは、何度も来日しFC東京や日本代表の試合をチェックし、極東の島国のディフェンダーを選んだ。
7月14日、長友佑都とチェゼーナが正式に契約。
プロサッカー選手はチームと契約して給料をもらっている。
契約期間中に選手が他のチームに移籍するとき、そのチームに残りの契約分に当たる金額を支払い、これを移籍金という。
FC東京と長友佑都の間にまだ契約期間が残っていたので、移籍するとなると移籍金が生じる。
毎年、セリアAでは下位3チームがセリアBに降格するが、チェゼーネは降格圏内を行ったり来たりしているチームで、移籍金は大きな負担となるため、とりあえずレンタルという形でイタリアにいき、活躍次第で正式獲得という契約だった。
イタリアは「カルッチョ(サッカー)の国」と呼ばれ、セリアAは「世界最強のリーグ」といわれ、サッカー選手のステータスは高く存在価値は大きかった。
最初は言葉の壁があった。
サッカーでは同じことは2度と起きない。
試合前になにか約束事を決めても、その通りにならない。
だから状況に応じてどういうプレーをするか選手同士ですり合わせることが必要になる。
しかしイタリア語が話せない長友佑都は、とっさにいいたいことがいえない。
でも黙っていてはコミュニケーションは深まらないので、自分がフリーな状態で待っているのにシュートしたり、パスを出さずにチャンスを潰した選手には即座に大声でアピールした。
そうやって自分と自分のしたいプレーを示した。
日本に比べ外国は自己主張が強く、生存競争が激しいプロサッカーでそれはなおさらだった。
、たとえミスをしても簡単に失敗を認めない選手も多かった。
みんな闘志むき出しで、練習中にケンカのようないい合いがしょっちゅう起こり、練習のミニゲームでも本番さながらでボールを奪い合い、激しく体をぶつけ、チャンスと思ったら迷わずシュートを打った。
少しでも弱さをみせたら自分の居場所はなくなる。
それがヨーロッパのサッカーだった。
長友佑都も遠慮しなかった。

すげー、トッティだ

 (2218757)

8月28日、セリアAの開幕戦で元イタリア代表のフランチェスコ・トッティをはじめ世界の有力選手がそろうローマと対戦。
(すげー、トッティだ)
長友佑都は感動を隠して左サイドバックのポジションに着いた。
そしてフル出場し、試合は0対0で引き分け、アウェイ戦だったので勝ち点1を得た。
長友佑都は、たとえ海外のクラブであってもネガティブな感情を持つことはなかった。
これまでの経験で、ネガティブさや消極的な気持ちや行動は、ムダであると学んでいた。
「自分の強みを発揮したいと思ってもチーム全体のバランスもある。
サイドバックはディフェンダーだから強引なプレーをすることで失点を招く危険性は高い。
試合の流れを読んでチームメイトの状態を確かめ彼らを活かすプレーを選択する。
そんな判断力、考えるスピードと質を上げなければ上へはいけない」
9月11日、先発すべてが強豪国の代表経験者というACミランにセリアBから昇格したばかりのチェゼーナが勝利した。
長友佑都は、21歳のブラジル代表のパトにほとんど仕事をさせずに抑えた。
「負ける気はしない」
と強気で挑んだ試合だったが、試合後、悔しがるACミランをみると
「コイツらに勝ったのか」
と興奮した。
帰宅しようと駐車場から自宅まで歩いていると
「ナガトモ、グランデ」
と熱狂したチェゼーナサポーターに囲まれ声をかけられた。、
部屋に入った後もインターフォンが鳴らして喜びを伝えるサポーターが後を絶たず、日付が変わっても歌声やナガトモコールが家の外から聞こえた。
11月21日、パレルモ戦でチェゼーナで初のアシストを決めた。
12月18日、長友佑都は、カリアリ戦までチーム唯一の全試合フル出場を続けた。
その後、翌年1月にカタールで開催されるアジアカップに出場する日本代表に召集された。
セリアAのシーズンは9月から翌年5月。
最終的に下位3チームはセリアBに降格する。
チェゼーネは降格圏内を行ったり来たりしているチームだったので、当初、長友佑都の離脱に難色を示していたが、最終的には気持ちよく送り出した。
「代表行きを認めてくれたチェゼーナのためにもアジアカップで活躍して結果を残すことが恩返しになる」
(長友佑都)

ザックジャパン

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