ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1960年前半版)
2017年6月22日 更新

ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1960年前半版)

1960年前半は、私がちょうど幼児期より青年期に成長する時期であり、また外部からの刺激を積極的に取り入れようとしていた時期と重なります。ちょうどこの頃にハリウッド製の超大作スペクタクル映画が何本も封切され、両親と一緒に映画館に見に行きましたが、あまりの臨場感に恐怖感を憶えたことも多々ありました。そんな映画を年代別に集めてみました。

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’63年夏に『大脱走』が公開

『大脱走』(だいだっそう、原題: The Great ...

『大脱走』(だいだっそう、原題: The Great Escape)

『大脱走』(だいだっそう、原題: The Great Escape)は、1963年公開の米国映画。戦闘シーンのない集団脱走を描いた異色の戦争映画。監督はジョン・スタージェス。出演はスティーブ・マックイーン 、ジェームズ・ガーナー、チャールズ・ブロンソン 、ジェームズ・コバーン 、リチャード・アッテンボロー 、デヴィッド・マッカラム など。歴史物(近代)でもあり、戦争物でもあるアクション映画の古典的傑作といえば「大脱走」。脱走不可能とされたドイツ軍捕虜収容所から、連合軍捕虜が大量脱走したという実話の映画化で、トンネルを掘ってあの手この手でドイツ側を翻弄させる前半と、あれよこれよと逃げまくった後半とが絶妙のコントラストで、3時間まったく飽きることなく見せてくれる。
物語としては、第二次大戦中、ドイツ軍は各地に捕虜収容所を設置し連合軍の捕虜を収容していたが彼らの脱走による後方支援に戦況は混乱していた。そこで建設されたのが脱走不可能といわれるルフト第三空軍捕虜収容所であり、そこに「脱獄王」との異名をとるヒルツ(スティーブ・マックイーン)ら他の収容所からの脱走の常習者が移送されてきた。ルフト第三空軍捕虜収容所は監視がしやすい広い敷地に作られており、最も近い森までは最低でも100メートルもの距離があるという立地。しかも周囲は鉄条網に覆われ常に歩哨が監視にあたっている。捕虜のひとりで「ビッグX」と呼ばれる大物・バートレット(リチャード・アッテンボロー)は収容所の地下にトンネルを掘って250名もの捕虜を脱走させる計画を立てる。ヒルツも加わり脱走計画が始まった・・・!

その題材の面白さもさることながら、見せ場に次ぐ見せ場を盛り込んだ脚色と、ダイナミックな演出によって類稀な娯楽作品になっている。特に、公開時にスティーブ・マックイーンがドイツ軍から奪い取ったバイクで草原を疾走するシーンがその爽快さとともに話題となり、この映画の代表的なシーンとしてその後長く記憶されている。

『大脱走』出演陣の横顔紹介

テレンス・スティーブン「スティーブ」マックイーン(Te...

テレンス・スティーブン「スティーブ」マックイーン(Terence Steven "Steve" McQueen)

テレンス・スティーブン「スティーブ」マックイーン(Terence Steven "Steve" McQueen, 1930年3月24日 - 1980年11月7日)は、米国の俳優。「キング・オブ・クール "The King of Cool"」と呼ばれ、「アンチヒーロー」としてのキャラクターは1960年代の反体制文化(英語版)において発展し、1960年代から70年代にかけてトップ俳優としての地位を確立した。スタント・パーソンに頼らない本格的アクション俳優として一時代を築き、世界中の映画ファンを熱狂させた。
この映画では、通称「独房王(The Cooler King)」とよばえる米国陸軍航空隊大尉。本作の主人公格。単独行動を好む一匹狼。 野球が趣味で、独房でもボールとグローブは欠かさない。脱走に執念を燃やしており、独房にいる間は彼の脱走への試みが篭ったボールの音を日夜鳴り響かせていた。入隊前は大学で化学工学を専攻、学費の足しに祭でバイクレースに参加していたらしい。ドイツ捕虜収容所に送られて早々、ルーゲル所長と対立して20日間の独房行きとなる。以前の収容所では17回も脱走を試みた、とルーゲル所長宛ての報告書にあり、ヒルツが「18回だ」とルーゲル所長の発言を訂正したのは、この収容所に来るトラックからも脱走を試みた時の一回を加えたものである。

飛行機の曲乗り師だった父は生後6カ月で蒸発。母方の伯父のもと、ミズーリの牧場で育つ。9歳、12歳の時にと母が二度再婚し、ロサンジェルスに移るが不良グループと交際。14歳でカリフォルニアの少年院に収容され1年半を送る。出所後、職を転々とし、兵役後もそれが続いたが、女友達の勧めで51年からネイバーフット・プレイハウスにて演技を学ぶ。更にHGスタジオやアクターズ・スタジオでも演劇を学び、舞台を経ての1956年、「傷だらけの栄光」で映画デビュー。以後、CBSテレビの「拳銃無宿」で人気スターとなり以後はアクション・スターとして数々の作品に出演。カー・レーサーとしても有名で、ブルース・リーやチャック・ノリスの門下生でもあった。日本には裁判に出廷するためだけに来日したことも。肺ガンにより1980年に死亡。彼の遺灰は太平洋にまかれた。結婚は1956年、ニール・アダムス、1973年、アリ・マッグロー、1980年、バーバラ・ミンディと三回。ニールとの間に生れたチャド・マックィーンはその後俳優になった。
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アッテンボロー男爵、リチャード・サミュエル・アッテンボロー(Richard Samuel Attenborough, Baron Attenborough, CBE、1923年8月29日 - 2014年8月24日)は、英国の映画監督、映画プロデューサー、俳優。
この映画では、通称「ビッグX(Big X)」と呼ばれ、集団脱走計画を練る中心人物に扮している。階級は少佐。脱走した捕虜の捜索にドイツ軍の兵力を割かせ、ドイツ軍の後方かく乱を目的として250名もの集団脱走計画を企てる、頭脳に秀でた脱走のカリスマとして描かれている。

王立演劇アカデミーに学び、俳優として舞台や映画で活躍、性格俳優として評価され多数の映画に出演する。1960年の「紳士同盟」や1963年の「大脱走」あたりから魅力的な脇役として異彩を放っていたが、演出にも興味を抱き1969年のミュージカル「素晴らしき戦争」で監督デビュー。その後は俳優と監督の二足のわらじで活躍を続け、1982年の「ガンジー」でアカデミー監督賞を獲得。以降も「コーラスライン」、「遠い夜明け」など、多彩振りを発揮して話題作を造った。1976年にはナイトの称号を授与されている。テレビ局のBFI、チャンネル4などの会長、ユニセフの親善大使、王立演劇アカデミーの議長に就任したこともある。最近では「ジュラシック・パーク」のオーナー役が有名。1945年、シーラ・シムと結婚。息子のマイケルは舞台監督として活躍。動物学者のとして有名なデヴィッド・アッテンボローは弟にあたる。2004年、スマトラ島沖地震で娘と孫娘を失う。2014年8月に死去。2008年に階段から落ちて以来、車椅子で余生を過ごしていたという。享年90歳。
チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)

チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)

チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson, 1921年11月3日 - 2003年8月30日)は、米国の俳優。
この映画では、通称「トンネル王(The Tunnel King)」と呼ばれるポーランド人の大尉を熱演。脱走計画では脱走用トンネルの掘削作業を担当する。子供の頃からの閉所・暗所恐怖症でありながらも、そのことを押し殺してトンネルを掘り続ける。屈託のないやさしい男である。

本名はチャールズ・デニス・ブチンスキー(Charles Dennis Buchinsky)。リトアニア移民の父の下、15人兄弟の五男として生まれる。高校卒業後、家計を助けるために炭坑夫など様々な職に就き、1943年空軍に入隊。B29の射撃手となった。1946年に除隊後、美術学校に入学して舞台の裏方となりエキストラも経験。1948年に友人と共にNYに移住して舞台に端役として出演するようになる。その後LAへ移りパサディナ・プレイハウスで演技を勉強。1951年映画デビュー。当時は本名を名乗っていたがその後“Charles Buchinski”に改名。「太鼓の響き」からブロンソン名義になった。そして1960年の「荒野の七人」、1963年の「大脱走」で共に男臭い風貌が人気を呼んで俳優としての地位を確立。「さらば友よ」や「雨の訪問者」で国際的にもスターとなった。日本ではマンダムのCMで一世を風靡。外人タレントのCM起用の先駆けとなった。その後も独特の個性を活かしてアクション作品で活躍。近年は「狼よさらば」の主人公、ポール・カージイの復讐劇を描いた“デス・ウィッシュ”シリーズで健在なところをアピールした。1949年に女優と結婚してふたりの子供も出来たが1967年に離婚。翌年ジル・アイアランドと再婚して多数の作品で共演。しかし彼女が乳ガンを患い1990年に死別。その後1998年に再婚した。しかし彼自身もアルツハイマーとの闘いの末、2003年に肺炎でこの世を去った。

’63年の年末は二本の歴史超大作が封切され、最初に『クレオパトラ』が観客獲得で先行逃げ切りを図る!!

『クレオパトラ』(Cleopatra)

『クレオパトラ』(Cleopatra)

『クレオパトラ』(Cleopatra)は、1963年の米国映画。超歴史スペクタクル映画。
製作にあたっては、100万ドルという破格の報酬で契約した主役のエリザベス・テイラーの度重なる病気、初期のロケ地選択の失敗によるセットの造り直しで撮影が遅れに遅れ、さらに当初監督だったルーベン・マムーリアンをはじめとして、重要な配役が変更になる(当初シーザー役はピーター・フィンチ、アントニー役はスティーヴン・ボイドで撮影開始)という不手際にも見舞われ、その度にシーンの撮り直しを強いられた。また共演のテイラーとリチャード・バートンの不倫も取りざたされ大スキャンダルとなった。
最終的には製作費は4400万ドル(現貨換算で3億ドル以上)という空前の巨額にまで膨れ上がり、製作会社の20世紀フォックスの経営を危機的状況にまで陥れた。経営危機に際して会社の実権を握ったダリル・F・ザナックは、『シーザーとクレオパトラ』と『アントニーとクレオパトラ』の前編後編2本立てで計6時間という当初構想が、作品としては長過ぎて興行の妨げになること、また当時一大スキャンダルとなっていたテイラーとバートンの登場する『アントニーとクレオパトラ』の部分が後出しになることは時機を逸するという考えから、マンキーウィッツに映画を1本にまとめるよう指示した。これにより映画は1本立て5時間20分となったがザナックは満足せず、さらなる大々的なカットが行われた。
映画は製作開始から4年を経た1963年6月にようやくプレミア上映にこぎつけた。この際の上映時間は4時間5分だったが、一般公開版はさらに3時間14分に短縮された。そのため場面の繋がりが不明瞭な箇所や重要人物の死を描いた箇所が丸ごと欠落するなどといった、編集上の問題にも見舞われることになった。
『クレオパトラ』は同年の北米興行収益でトップを記録する4800万ドルのヒットとなったものの、20世紀フォックスの純益は製作費4400万ドルの半分強2600万ドルに過ぎず、事業的には社運を傾けるほどの大失敗作となった。
物語としては、皆様もよ~くご存知のはずです。最後にはクレオパトラはコブラに噛まれて人生を終えます。
『クレオパトラ』の一場面

『クレオパトラ』の一場面

紀元前48年、エジプト王国は内乱につぐ内乱を重ね、新興ローマの覇勢に滅亡寸前のありさまだった。幼いプトレマイオス14世をを立てる一派は、王の姉にあたる18歳のクレオパトラ(エリザベス・テイラー)を王宮から追放する。そのころ、アレキサンドリアに遠征していたローマの将シーザー(レックス・ハリソン)は砂漠のスフィンクスで初めてクレオパトラに会い。その虜になってしまった。シーザーはクレオパトラを伴い、アレキサンドリアに侵入、激しい戦闘を重ねて勝利を収め、クレオパトラは、エジプトの王に即位した。やがてローマに凱旋したシーザーは、独裁者としての勇威を高めていった。クレオパトラはそのシーザーを追ってローマへ渡った。しかし、2人の喜びも束の間、シーザーはブルータス(ケネス・ヘイグ)達暗殺団の手にかかり、その短い生涯を閉じた。クレオパトラは不穏なローマを逃れてエジプトに帰った。そして、3年の月日が流れた。ローマの権力者となったアントニー(リチャード・バートン)は財政の窮乏を救うため、エジプトに活路を求めた。アントニーを迎えたクレオパトラだったが、たちまち2人に恋の焔が燃え上がる。アントニーがクレオパトラと結婚し、彼が死んだらエジプトの土になるという遺書を認めてローマ元老議員は激昂した。そしてアントニーは、ローマとの戦いに敗れて、自ら命を絶つ。捕らわれたクレオパトラは、「アントニーの側に葬って……」と遺書を書き、アスプ(毒蛇)を隠した果物篭に自らの手を差し入れたのだった。

『クレオパトラ』出演陣の横顔紹介

エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)

エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)

エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE、1932年2月27日 - 2011年3月23日)は、英国出身の女優。少女時代から米国の映画会社MGMで子役として映画出演していて、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色の瞳で知られていた。
本名はElizabeth Rosemond Taylor。美術商をしていた父の関係で1939年に渡米し、ビバリーヒルズに住む。女優志望だった母に夢を託され、ご近所のツテを頼って1942年にユニヴァーサル作品“There's One Born Every Minute”の端役で映画デビュー。翌年MGMと契約し、スタジオ内の学校に通いながら「家路」に出演。以降「緑園の天使」、「若草物語」、「陽のあたる場所」、「ジャイアンツ」等々、幼い頃から醸し出していた大人の雰囲気で映画ファンを魅了し、“リズ”の愛称で親しまれた。1950年代後半からは名実共に円熟味を増し、「愛情の花咲く樹」、「熱いトタン屋根の猫」、「去年の夏突然に」と3年連続でアカデミー賞にノミネートされ、1960年には「バタフィールド8」で主演賞を受賞。1963年には「クレオパトラ」に出演。撮影中に大病を患ったりしたが、1966年には「バージニア・ウルフなんかこわくない」で2度目のアカデミー賞を受賞。1970年以降はさすがに年と共に人気にも陰りが見え始めるが、1980年代からはブロードウェイへ進出。そこでも成功を収めて舞台女優として活躍し、TVにも積極的に出演。1987年にレジョン・ドヌール勲章を受けるほか、香水“パッション”、“ホワイト・ダイヤモンズ”を売り出すなどした。1984年からはエイズ撲滅運動に目を向け、翌年研究財団AmFARを設立。1991年にはエリザベス・テイラー・エイズ財団も設立し、その功績を称えて1993年にアカデミーのジーン・ハーシ賞を受賞した。さて、エリザベス・テイラーといえば結婚遍歴が付き物。15歳の頃から共演者や大富豪の息子たちとの噂は絶えることなかったが、最初の結婚は18歳の時の1950年、ホテル王の息子、コンラッド・ヒルトン・ジュニアと。しかし1年と経たずに離婚。1952年に撮影先で知り合ったマイケル・ワイルディングと結ばれ二人の息子が生れるが、プロデユーサーのマイケル・トッドと恋に落ちて1957年に離婚。その3日後にトッドと結婚するが彼が飛行機事故で1958年に死亡。落ちこんでいた彼女を(当時デビー・レイノルズと結婚していた)歌手のエディ・フィッシャーが励まし、不倫関係に発展。1959年に世の非難の中、結婚した。その後「クレオパトラ」で共演したリチャード・バートンといい仲になり、こちらも大スキャンダルとなったが(当時のバートンはもちろん妻子持ち)1964年、リズ離婚後の9日目に再婚。リチャード・バートンとは以降多数の作品に共演するが、1974年、彼のアルコール中毒がもとで離婚。翌年よりを戻して再婚するがわずか10ヶ月ではたまた破局。1976年に上院議員、ジョン・ワーナー、1991年にはラリー・フォーテンスキーと再婚したがいずれも離婚し、結婚回数はバートンとの二度の結婚を含めて8回となった。2011年、うっ血性心不全のため死去。79年の人生だった。
リチャード・バートン,CBE(Richard Burt...

リチャード・バートン,CBE(Richard Burton,CBE)

リチャード・バートン,CBE(Richard Burton,CBE, 1925年11月10日 - 1984年8月5日)は、英国・ウェールズ出身の俳優である。英国映画界を代表する俳優の一人。
この映画では、共和政ローマの政治家・軍人であるアントニウスを演じた。

本名はRichard Walter Jenkins Jr.。炭坑作業員の息子(13人兄弟の12番目)に生まれ、2歳の時に母親が死に、姉夫婦に育てられる。16歳で学校をやめて働かなければいけなくなったが、彼の教師であったフィリップ・バートンが彼を養子に取り、18歳の時には英空軍の士官候補生としてオックスフォード大学エクセターコレッジの6ヶ月間の特別コースで学ぶことが許された。1943年にリヴァプールの舞台でデビューし、その後、舞台俳優として活躍。1944年から3年間、英空軍のパイロットとして従軍。1949年に映画デビュー、映画で共演した女優シビル・ウィリアムズと結婚した。同年、クリストファー・フライ作の『The Lady's Not For Burning』での演技が絶賛される。これがきっかけとなって1952年にはハリウッドに招かれ、『謎の佳人レイチェル』でオリヴィア・デ・ハヴィランドと共演、アカデミー助演男優賞にノミネートされる。
舞台ではオールド・ヴィク座の『ハムレット』『オセロ』やブロードウェイのミュージカル『キャメロット』などに主演、英米の垣根を越えて活躍、特に『キャメロット』では1961年のトニー賞ミュージカル部門の俳優賞を受賞した。映画では『聖衣』『アレクサンダー大王』『北海の果て』『史上最大の作戦』などの大作や、『寒い国から帰ったスパイ』や『暗殺者のメロディ』などに出演。しかし『謎の佳人レイチェル』を初めアカデミー賞に計7回もノミネートされたものの、一度も受賞はできなかった。
1963年の『クレオパトラ』で共演したクレオパトラ役のエリザベス・テイラーと恋が芽生え、スキャンダルとなった。その後、妻ウィリアムズと離婚し、一方エディ・フィッシャーと別れたテイラーと結婚、その後は夫婦して、『予期せぬ出来事』『いそしぎ』『バージニア・ウルフなんかこわくない』『じゃじゃ馬ならし』『悪のたのしみ』『危険な航路』『夕なぎ』で共演、しかしバートンがアルコール使用障害にかかり、1973年にテレビ映画『離婚』に夫婦共演中に本当に二人の離婚が取り沙汰されるようになり、ついに翌年離婚した。その後1975年10月10日に二人は再婚するが、翌年、再び離婚する。1983年のブロードウェイの舞台が二人の最後の共演となった。テイラーとの離婚後は2度結婚を繰り返し、1984年にジュネーヴ郊外の自宅で脳溢血により倒れ、市内の病院に搬送されたが帰らぬ人となった。
レックス・ハリソン(Rex Harrison)

レックス・ハリソン(Rex Harrison)

レックス・ハリソン(Rex Harrison、1908年3月5日 - 1990年6月2日)は、英国の俳優。
この映画では、共和政ローマの政治家・軍人であるジュリアス・シーザーを演じた。

本名: Reginald Carey Harrison。イングランドのハイトン(Huyton:当時はランカシャー州、現在はマージーサイド州)出身で、父は絹仲買人だった。子供の頃にかかった麻疹のせいで左目の視力をほとんど失う。1924年にリヴァプールのレパートリー劇場で初舞台を踏むが、第二次世界大戦に従軍したため、一時期そのキャリアはストップする。1930年にロンドンの舞台に進出、1936年にはブロードウェイの舞台に立った。主に都会派コメディで活躍した。1940年代には『陽気な幽霊』、『アンナとシャム王』、『幽霊と未亡人』といった名作に出演、上品で洗練された個性で多くの女性ファンを獲得した。1949年と1957年にトニー賞を受賞。1964年公開の『マイ・フェア・レディ』では、1956年にブロードウェイで初演したヒギンズ教授役でアカデミー主演男優賞およびゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞。自身最高の当り役となった。
私生活では、プレイボーイとしても名を馳せ、リリー・パルマー、ケイ・ケンドール、レイチェル・ロバーツなど生涯に6度の結婚をし、レクシー・ハリソン(レックスとセクシーを合成させた)の異名をとった。

’63年の年末にはもう一本の歴史超大作が封切られた。その名も『アラビアのローレンス』!!

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Ar...

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Arabia)

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Arabia)は、1962年、米国ではなく英国で作成された映画である。日本では、一年後の1963年12月に公開された。ジャンルとしては、近世の中東を舞台とした歴史スペクタクル超大作映画。デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
砂漠とその民を深く愛し、しかし英国人であるがために深い挫折に追い込まれていく青年リーダー、ローレンスの苦悩を中心に、砂漠の一大戦争スペクタクルを展開していく。D・リーンの数ある名作の中でも紛れもない最高傑作で、その年の米国アカデミー賞7部門を受賞した。

約4時間に渡る超大作であり、夜となく昼となく表情を変える砂漠の美しさとスケール感に圧倒される。その砂のキャンバスに描き出されるエキゾチックな色彩のコントラストがリアルに浮かび上がり、どのシーンを切り取っても一枚の絵画に成り得るようなフレーミングには目を釘付けにされるばかりであり、画面構成での黄金比がこれほど見事な映画は史上類を見ない。これも砂漠というロケーションを中心に捉えた効果なのだろうか。物語の内容以前にその黄金比に心を奪われ、巨大な美術館の中で壮大な宗教絵巻を見ているようなシーンの連続は圧巻としか言いようがない。映画史上最も美しいスペクタクルだと断言できるほどの作品である。願わくば一度は映画館で見てみたい。
『アラビアのローレンス』(Lawrence of Ar...

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Arabia)あらすじ

1916年、英国陸軍カイロ司令部に勤務中のローレンス少尉(ピーター・オトゥール)は、トルコに対して反乱を起しつつあるアラブ民族の情勢を確かめるため三ヶ月の派遣を命ぜられた。ロレンスは反乱軍の指揮者ファイサル王子(アレック・ギネス)の陣営へと灼熱の砂漠の中を旅立ったが、同じ民族が争うのに愛想を尽かし、ハリス族首長アリの案内申し出を断った。やがてイギリス軍将校ブライトン大佐(アンソニー・クェイル)に逢ったが、突如トルコ空軍の爆撃を受け、近代武力の前にアラブ反乱軍の無力さを見せつけられる。ブライトン大佐は彼らに最新兵器による指導と訓練を提案したが、ローレンスはゲリラ戦を主張した。それはトルコ軍の重要地点アカバの反対側にいる、アウダ(アンソニー・クイン)を首長とするハウェイタット族と連携し、背後から敵を叩いて撹乱させるという作戦だった。しかしローレンスの部隊は疲労困憊し、ラクダも人も次々と倒れて行く。ある夜、部隊全員がアウダの陣営に招待され、ローレンスとアリはアラブ民族の団結を説き、アカバに秘宝があるという話を聞いてアウダはロレンスに助力を約束する。補強された部隊での進撃中、ガシムがアウダの部下と争い相手を殺してしまう。砂漠の掟によりローレンスはガシムへと引金を引いた。アカバでの戦いは苛烈を極め、ローレンスが意識を回復したときにはトルコ兵の姿はなく、アウダが役に立たない秘宝の箱を抱えているだけだった。ローレンスはアカバ攻略を告げるためカイロに向かい、到着すると司令官がアレンビー将軍(ジャック・ホーキンス)に変わっていた。ローレンスはゲリラ戦の指導者という新たな任務を与えられた。何回目かの鉄道爆破の際、部下のファラジが重傷を負ったがローレンスは秘密漏洩を恐れその場で射殺した。エルサレムに行ったローレンスは、英仏両国間にアラブとトルコの土地を二等分する条約が結ばれているのを知り愕然とするが、再編成された彼のゲリラ部隊にはアリもアウダも参加していた。ローレンス支持者の集落へ部隊が訪れたとき、そこはトルコ軍の襲撃を受け廃墟と化していた。怒ったローレンスはトルコ兵を全滅させた。アウダは部下を連れ砂漠へ帰り、アリはダマスカスに残ると言った。ローレンスはトルコの病院に忘れられている二百人の重傷者を労い、アラビア人の装いで病院へ向ったが、誤解した英国の軍医に、惨状を引き起した張本人だと平手打ちを食わされる。アレンビー将軍の司令部でも、シリアの王となるファイサルにとっても、ローレンスは無用の者となり追放を受ける。大佐への進級と英国への帰還船に個室が用意されたことだけが、ローレンスの功績に対する感謝の印だった。ダマスカスを発ったローレンスは顔馴染みを探したが、彼に気づく者は誰もいなかった。

『アラビアのローレンス』出演陣の横顔紹介

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole)

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole)

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole, 1932年8月2日 - 2013年12月14日)は、アイルランドの俳優。シリアスで濃厚なドラマから軽妙なコメディまでこなす演技派として知られる。
この映画では、主人公の英国陸軍カイロ司令部に勤務中するローレンス少尉を熱演した。

本名: Peter Seamus O'Toole, イギリスのヨークシャーに育つ。幼い頃からの夢だったジャーナリストになるべく地元の新聞社に入社して4年間を過ごす。一方ではアマチュア劇団にも参加して1949年に初舞台を踏んだ。その後、海軍に従軍して除隊後、奨学金を得て王立演劇アカデミーに入学。1955年にはプロ・デビューも果たした。その後はシェイクスピア劇を中心に活躍。映画へは1960年の「海賊船」でデビュー。やがてプロデューサーのジュールス・バックと共に独立プロも設立した。そして1962年、「アラビアのローレンス」のT・E・ローレンス役に抜擢。188cmの長身と透き通るような美しいグリーンの瞳と共にエキセントリックな演技が作品に多大な影響を与え、自身もアカデミー主演賞候補にもなった。その後も多数作品に出演して計7回も同賞候補になっているが「アラビアのローレンス」の印象があまりにも強烈だったためか以降の作品に恵まれたとは言い難い。1959年に舞台で共演したシアン・フィリップスと結婚して二人の娘も生まれたが1979年に離婚している。1975年には腹部の悪性腫瘍で余命幾ばくもないと告知を受けたが手術の後に奇跡的にこれを克服。以降も精力的に俳優活動を続けていたが、2012年にその第一線から退くことを表明。2013年12月、ロンドンの病院で病気のため死去した。長年に渡り闘病生活を送っていたという。
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