ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1960年前半版)
2017年6月22日 更新

ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1960年前半版)

1960年前半は、私がちょうど幼児期より青年期に成長する時期であり、また外部からの刺激を積極的に取り入れようとしていた時期と重なります。ちょうどこの頃にハリウッド製の超大作スペクタクル映画が何本も封切され、両親と一緒に映画館に見に行きましたが、あまりの臨場感に恐怖感を憶えたことも多々ありました。そんな映画を年代別に集めてみました。

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ナタリー・ウッド(Natalie Wood)

ナタリー・ウッド(Natalie Wood)

ナタリー・ウッド(Natalie Wood、1938年7月20日 - 1981年11月29日)は、米国の女優。
本名はNatasha Nikolaevna Gurdin。ロシア系3姉妹の次女。妹、ラナ・ウッドも女優。4歳の時、ロケに訪れたアーヴィング・ピシェル監督と知り合い、そのオシャマな性格が気に入られ、“Happy Land ”にわざわざワン・シーン追加までしてくれて出演。監督は“いずれ必ず迎えに来る”と約束。そしてその4年後、本当に迎えが来てユニヴァーサルと正式契約し「離愁」で映画デビュー。翌年「三十四丁目の奇蹟」に愛くるしく出演して一躍有名になる。スタジオ内の高校を卒業後、55年「理由なき反抗」でジェームズ・ディーンの恋人役を演じて子役から転進。演技面でも評価されアカデミー助演賞にノミネートされた。以降もトップ・スターの名を欲しいままにして「ウエスト・サイド物語」、「草原の輝き」など、多くの作品に出演。70年代に入るとさすがに出演作は少なくなったものの、持ち前の美貌は衰えていなかった。恋の噂も有名で、レイモンド・バー、プレスリー、デニス・ホッパーなどと話題になり、57年、ロバート・ワグナーと結婚。62年離婚後はウォーレン・ベイティと婚約するが破局。製作のリチャード・グレグソンと69年再婚して一児をもうけるが離婚。72年ロバート・ワグナーと再び結婚して一女の母となった。しかし「ブレインストーム」撮影中の81年、ボートから転落して水死。同作は脚本変更を余儀なくされて後に完成した。
リチャード・ベイマー(Richard Beymer)

リチャード・ベイマー(Richard Beymer)

リチャード・ベイマー(Richard Beymer, 1939年2月21日 - )は米国出身の俳優。本名はGeorge Richard Beymer Jr.、別名をディック・ベイマーともいう。
父親は画家で、10歳で児童劇団に入る為、両親と共にハリウッドに移住し、子役として映画やテレビに出演する。巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作『終着駅』でモンゴメリー・クリフトと共演を果して注目を浴びる。1961年に『ウエスト・サイド物語』の主人公トニー役で有名になるも、以後あまり目立った活躍はない。1974年に自作自演の映画『The Interview』がマンハイム映画祭で賞をとるも、俳優としての活躍の場は減る一方で、一時は写真家に転身したり行方不明になったりして完全に表舞台から姿を消していたが、テレビ映画に活躍の場を求め、1990年に米国で放送開始され、爆発的人気となった『ツイン・ピークス』でベンジャミン・ホーン役を演じカムバックを果した。
2007年には自伝『Impostor: Or Whatever Happened to Richard Beymer?』を出版した。
ジョージ・チャキリス(George Chakiris)

ジョージ・チャキリス(George Chakiris)

ジョージ・チャキリス(George Chakiris, 1934年9月16日 - )は、米国のダンサー、歌手、俳優。
ギリシャ移民の子としてロング・ビーチで育つ。高校時代からダンサーを志し卒業後にLAで会社勤務をしながらダンスを学び、ダンサーの一員として「ショウほど素敵な商売はない」や「ホワイト・クリスマス」に出演。その後ジュディ・ガーランドやジェーン・マンスフィールドのラスベガスのショーに参加。舞台『ウエスト・サイド物語』のツアー・キャストのジェット団のリーダー役に抜擢されてロンドンで公演。映画の時は主人公、ベルナルドに扮してはじけるような踊りでアカデミー助演賞を受賞。しかし以降はベルナルドのイメージを払拭することが出来ず映画では低迷。舞台を中心に活躍した。日本での公演も多い。

年が明けた1962年は歴史超大作が3本も公開される!!

まずは、『エル・シド』ですね!!

『エル・シド』(El Cid)

『エル・シド』(El Cid)

『エル・シド』(原題:El Cid)は、1961年制作のイタリア・米国合作の映画。アンソニー・マン監督。主演は、チャールトン・ヘストン、ソフィア・ローレン。
11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シドことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)の生涯を描いた歴史超大作スペクタクル作品。
物語としては、狂信的な回教徒ベン・ユーサフ(ハーバート・ロム)は、アフリカからヨーロッパ侵略の機会を窺っていた。彼はムーア人の諸公を煽動しては、カスティール国境の村を脅かした。ある小競り合いの折、ムーア人の大公たちはカスティールの若き武将ロドリーゴ(チャールトン・ヘストン)に捕らえられたが、彼の思いやりから全員釈放された。感激した大公の1人は彼にエル・シドの称号を贈った。だが、ムーア人を釈放したことから、彼は王をはじめ恋人シメン(ソフィア・ローレン)からさえ非難を受けた。そのことでエル・シドと争ったシメンの父ゴルマスは、彼の剣にかかって死んだ。息をひきとる父から復讐を頼まれたシメンは苦しんだが、父を殺された憎しみは愛を押し流すのだった。それからのエル・シドは、戦うごとに勝利を勝ち取り勇名を馳せるのだったが、ことごとにシメンが自分をおとし入れようとするのを知り心が重かった。だが、シメンを思いきれないエル・シドは、王に彼女との結婚を願い出た。婚儀の日、心を固く閉ざしたままのシメンは夫にすべてを許さないことこそ復讐と、翌朝修道院へこもってしまった。そのころ、王の急逝により王子サンチョとアルフォンソ(ジョン・フレイザー)の間で王位継承の争いが起こった。やがて王位に就いたアルフォンソは、事の真相を知るエル・シドを追放しようとはかった。追われたエル・シドは寂しく城を旅立ったが、彼の偉大さを知ったシメンは後を追った。それから数年、エル・シドは再び勇将として返り咲いた。一方、バレンシアでは、ベン・ユーサフが侵略に余念がなくアルフォンソ王にも挑戦してきた。旗色の悪くなった王は、エル・シドを呼び戻した。彼の働きでバレンシアは陥落し、エル・シドはバレンシアの大公から王冠を受けた。城外ではベン・ユーサフの率いる一隊が待ちかまえていた。やがてエル・シドの軍と戦闘が始まり、愛馬にまたがり指揮するエル・シドは胸に矢を受けた。英雄エル・シドはついに生涯を閉じたのだが、その翌朝馬上にまたがる彼の勇姿をみた敵は浮足立った。彼の遺言により死体が馬上にすえられていたのだ。かくて戦いは勝利に終わり、スペインの国土からは侵略者が一掃された。そして、エル・シドの名は歴史の流れに輝かしく残ったのであった。

普段、私たちはスペインの歴史などに触れたことすらなかったのだから、子供心にもそれは新鮮に写ったと思います。

『エル・シド』出演陣の横顔紹介

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston, 1923年10月4日 - 2008年4月5日)は米国出身の俳優、社会運動家。身長191cm。妻は女優のリディア・クラーク、長男は映画監督のフレイザー・ヘストン(Fraser Heston)。
本名はJohn Charles Carter。12歳の時に両親が離婚。母(旧姓チャールトン)が再婚し、義父の姓のヘストンを貰ってチャールトン・ヘストンと名乗るようになる。高校時代に学生劇に出演して演劇に興味を抱き、ノース・ウエスタン大学で演劇を専攻。1944年には大学で知り合った演劇仲間の女学生リディアと結婚。直後に空軍に従軍して無線技師となる。除隊後に妻と共に劇団を旗揚げし、1947年、ブロードウェイ・デビュー。やがてTVで活躍し始め、ハル・B・ウォリスに認められて、1950年「虐殺の街」でスクリーン・デビュー。その2年後に「地上最大のショウ」に出演。以降“ミケランジェロの彫刻のような素晴らしい肉体”とセシル・B・デミルに絶賛され、「十戒」、「ベン・ハー」などのスペクタクル大作や歴史劇のヒーローとして絶大なる人気を獲得し、アカデミー主演賞に輝いてその後はスター街道を走り続ける事となった。1966年からは俳優組合の会長に5年間就任。1971年には「アントニーとクレオパトラ」で監督にも挑戦。俳優仲間からの人望も厚く、ハリウッドでの政治的リーダーとして強い影響力を示し、1977年にはその功績からジーン・ハーショルト友愛賞を授与されている。1998年からは全米ライフル協会の会長にもなった。近年も話題作への関わり合いが多い。ハリウッドの有名俳優としては珍しく離婚歴もなく、息子のフレイザーは監督になった。2002年、アルツハイマーの兆候があることを告白。治療に当たっていたが2008年に帰らぬ人となってしまった。
ソフィア・ローレン(Sophia Loren)

ソフィア・ローレン(Sophia Loren)

ソフィア・ローレン(Sophia Loren イタリア語: [soˈfiːa ˈlɔːren], 英語: [soʊˈfiːə ləˈrɛn], 1934年9月20日 - )は、イタリアの代表的な女優である。アレッサンドラ・ムッソリーニは彼女の妹アンナ・マリアの娘である。
本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ(Sofia Villani Scicolone)。母妹と共にナポリで貧しい生活を送る。当時から素晴らしいプロポーションだったが50年、“海の女王コンテスト”で12人の中に選ばれ、その賞金で演劇学校に通う。その後残りの賞金でローマに移住。同年「クォ・ヴァディス」で映画デビュー(エキストラ)。しかし依然生活は厳しく、ヌードで映画出演したり、モデルになったりしていた。だが次第に運も味方につき、「ナポリの饗宴」に出演してイタリアで火が着き始め、55年「河の女」の野性的な魅力で世界的にも名前が知られるようになる。そしてそれを見たスタンリー・クレーマーによって57年「誇りと情熱」でハリウッドデビュー。以降、演技面でも実力を発揮して数々の賞を受賞。イタリアを代表する大女優となった。現在でもその美貌は決して失われてはいない。57年、下積みの頃から知り合いであり、良きアドバイザーだったプロデューサーのカルロ・ポンティとメキシコで結婚。しかしローマ・カトリックの布教されていないメキシコでの、既婚者だったカルロの離婚と結婚を教会は許可せず、逆にカルロを重婚罪で告訴、戸籍上は不成立となった。その後長い同棲生活の末、66年パリで結婚成立。イタリアの上告裁判でも重婚罪は却下された。以降二人とイタリアの関係はあまり良くないと言われている。68年に長男、73年に次男を出産している。

私は彼女の映画と言えば、『エル・シド』も勿論印象深いのですが、1970年の『ひまわり』が一番印象に残っています。

次に、『西部開拓史』ですね!!

’62年の最後の超大作は『史上最大の作戦』だ!!!

『史上最大の作戦』(The Longest Day)

『史上最大の作戦』(The Longest Day)

『史上最大の作戦』(The Longest Day)は、1962年の米国映画。モノクロ。20世紀フォックスが製作・配給。第二次世界大戦における連合国軍のノルマンディー上陸作戦(作戦名は「オーバーロード作戦」)の詳細を描いたコーネリアス・ライアンによるノンフィクション「The Longest Day」(邦題:「史上最大の作戦」)を原作に製作された戦争映画である。出演はジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ジャン=ルイ・バロー、ロバート・ライアン、リチャード・バートン、ロバート・ミッチャム、ショーン・コネリー、ロッド・スタイガー、ロバート・ワグナー、ジェフリー・ハンター、リチャード・ベイマー、ポール・アンカ、メル・ファーラー、などなど当時を代表とする米英仏独の俳優たちが一同に顔を揃えている。
物語としては、1944年6月、フランス、ノルマンディー。第二次世界大戦は佳境に差しかかろうとしていた。この地では、司令官ロンメル率いるドイツ軍が、英仏海峡を挟んで戦機をうかがう連合軍の攻撃に備えている。敵には人数で圧倒されているが、天候を味方につけて堅固な防御態勢を敷いていた。一方英国では、アイゼンハワー司令官率いる連合軍が、ノルマンディー上陸作戦の日であるDデイを何日にするか最終的に絞り込んでいた。こうして6月6日の早朝、連合軍の空挺部隊が降下したのを皮切りに、いよいよ熾烈を極めた上陸作戦が始まるのだった…。
1944年6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦に材を取ったコーネリアス・ライアンのノンフィクションを基に、名プロデューサー、ダリル・F・ザナックが製作費36億を投じて作り上げた一大戦争パノラマ。米・英・仏・独のトップスター総出演と、大画面いっぱいに展開される戦場の再現は、映画的興奮に満ち溢れ、至福と驚嘆の3時間である。
ラストの上陸シーン空撮は何回見ても”凄い”の一言だ。特に飛行機で上空から見たシーンは圧巻である。今ならCGでコピペしてこの映像を作っちゃうのかな~といらんことも考えたりします。これだけカネがあるのに、どうしてカラーフィルムで撮らなかったのかは不思議であるという人々もいるのであるが、私個人の意見としては、戦争という”惨たらしさ”を薄め、”虚しさ”や”空虚感”を強調するために、わざと白黒にしたのではなのかと思っている。さて、真相は??。

この映画に出演した”スター級俳優”があまりにも多いため、ここでは、その中でも”超”が二つ程付くスター級俳優を紹介することとしよう。

『史上最大の作戦』出演陣の横顔紹介

ジョン・ウェイン(John Wayne)

ジョン・ウェイン(John Wayne)

ジョン・ウェイン(John Wayne,1907年5月26日 - 1979年6月11日)は、米国の俳優、映画プロデューサー、映画監督。「デューク」(Duke)の愛称で呼ばれた。本名はマリオン・ロバート・モリソン(Marion Robert Morrison)。
この映画では、米国陸軍第82空挺師団第2大隊長であるベンジャミン・バンダーボルト中佐を演じており、その存在感はたいしたものである。

彼は高校時代にいつも連れていた犬の名前から“デューク”のニックネームが付く。南カリフォルニア大学に入学後、フォックス撮影所でアルバイトをしている時にジョン・フォード監督と知り合う。1930年、「ビッグ・トレイル」の主役に抜擢され、芸名をデューク・モリソンからジョン・ウェインに改名。1939年、フォード監督の「駅馬車」に出演して人気を確立。以降、西部劇の人気スターとして活躍する傍ら、「拳銃の町」など製作者としても活動。マネー・メイキング・スターの常連として名を連ねるようになる。1960年代に入ってからはガンに侵された体と戦いながらも出演を続け、1969年「勇気ある追跡」にて念願のアカデミー主演男優賞を受賞。その後も活躍を重ね、1976年の「ラスト・シューティスト」で自らを封印して事実上の引退。結婚は3回。長男のマイケルは映画プロデューサーとして父の作品にも関わり、パトリック、ジョン・イーサンの二人は俳優になった。度重なる手術後まもなく、周囲の反対をよそにアカデミー作品賞のプレゼンターとして授賞式に参加し、その二ヶ月後の6月11日に永眠した。墓標には“彼は醜く、強く、誇り高い男だった”と刻まれている。
ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum)

ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum)

ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum, 1917年8月6日 - 1997年7月1日)は、米国出身の俳優。実弟ジョンも俳優。また長男クリストファー、次男ジェームズはじめ、孫のキャリー、ベントレーも同じく俳優となっている。
この映画では、米国陸軍第29歩兵師団副師団長であるノーマン・コータ准将役を演じていて、葉巻を銜えたダンディーな井出達を披露している。
眠たそうな瞳を擁した顔立ちに加え、がっしりとした体格を武器に戦後のスクリーンを賑わせたタフガイ俳優としてお馴染みで、スリーピング・アイという異名をとった。
本名はRobert Charles Durman Mitchum。父が1歳半の時に死亡。姉や弟のジョンと共に母の実家へ移る。14歳の時に家を出て各地を転々としながら肉体労働に従事。やがてカリフォルニアに渡り飛行場で仕事をしながら地元劇団に加入。その後1942年に映画デビューを果たす(一時期“ボブ・ミッチャム”と名乗る)。1944年にはRKOと契約を結び「ネヴァダ男」に主演。翌年の「G・I・ジョウ」では早くもアカデミー助演賞候補となった。1948年、マリフファナ吸引の容疑で逮捕され、2年間投獄されるというスキャンダルに巻き込まれるが、裁判で冤罪を実証して無罪となった。以降イメージダウンの逆境をはね返し、マリリン・モンローと共演した1954年の「帰らざる河」、名優チャールズ・ロートンが生涯ただ一度監督を手掛けた「狩人の夜」、強烈な悪役を演じた「恐怖の岬」、そして巨匠デヴィッド・リーンの「ライアンの娘」など、数々の傑作に出演。アクション・ファンには「眼下の敵」や、「史上最大の作戦」、そして「エル・ドラド」などで頼もしいヒーローを演じて親しまれた。幼なじみのドロシーとは1940年に結婚。息子のクリス、ジェームズと孫のキャリー、ベントレーと皆彼の後を追って俳優になった。1997年、肺ガンによる呼吸器疾患で就寝中に死亡した。
ショーン・コネリー(Sir Thomas Sean C...

ショーン・コネリー(Sir Thomas Sean Connery)

サー・トマス・ショーン・コネリー(Sir Thomas Sean Connery、1930年8月25日 - )は、英国スコットランド出身の映画俳優。『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で一躍有名となり、その他のアメリカ映画にも多数出演している。
この映画では、イギリス軍コマンド部隊に所属するフラナガン一等兵役をクールに演じている。
本名はThomas Sean Connery。中学から働きに出て卒業後はトラック運転手に。18歳で海軍に入隊。病気のため除隊してから新聞社など職を転々としていたが、友人の勧めで『南太平洋』の舞台に立ったのをきっかけに本格的に俳優を志し、“No Road Back”で映画デビュー。が、その後もあまり陽のあたることは無かった。そんな折、1957年の「虎の行動」出演をきっかけに「007/ドクター・ノオ」でボンド役を得てから人気上昇。以後、ボンド役を引退してからも数々の映画に出演。1987年、「アンタッチャブル」でアカデミー助演男優賞を獲得。最近ではセクシーというより渋みある初老男性を魅力的に演じている。最初の妻、女優ダイアン・シレントとは1973年に離婚(二人の間に生まれたジェイソンは俳優になった)。その翌年、画家のシシェリン・ルクブルンと再婚している。1999年、ナイトの称号も得た。

1963年も歴史物超大作の嵐だった!!

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