幅広い活躍ぶりを見せた篠田正浩さん
篠田正浩さんの経歴
1931年、岐阜県岐阜市に生まれ、幼少期を地元で過ごした篠田正浩さん。公立高校を卒業すると、早稲田第一文学部に入学しました。卒業後は松竹に入社し、映画製作に関わっていくこととなります。
1960年代に全盛期を迎えた日本映画界の流行”ヌーベルバーグ”の担い手として、同じく松竹所属の大嶋渚さん・吉田喜重さんたちと共に注目を集める存在となります。会社との衝突を繰り返し、早々に独立していった二人とは異なり、篠田正浩さんがフリーとなるのは1966年と松竹映画に多大な貢献を果たしました。
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1967年には独立プロダクションの表現社を設立。前衛的・先鋭的なものから大手映画会社による配給作品も手掛け、映画監督として幅広い分野のコンテンツを手掛けています。
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1990年には映画『少年時代』で日本アカデミー賞・監督賞を獲得。国際的な祭典としても有名なカンヌ国際映画祭にも3度の出品をしており、グローバルな活躍ぶりという観点でも目を見張るものがあります。
[映画ニュース] 篠田正浩監督、京都国際映画祭「牧野省三賞」を受賞 https://t.co/CBzxzjxCNe #映画 #eiga pic.twitter.com/xj0xaOBq9z
— 映画.com (@eigacom) October 13, 2016
2003年、篠田正浩さんは映画『スパイ・ソルゲ』の公開を最後に、映画監督から引退することを発表しました。引退後の2016年には、京都国際映画祭で牧野省三賞を獲得し、公の場で元気そうな姿を見せてくれたのは印象的でしたね。
篠田正浩さんにまつわるエピソード
大学生時代は駅伝走者として活躍
高校生のころは陸上部に所属し、400m走の選手として国体に出場するほどの選手だった篠田正浩さん。しかし、国体では予選で敗退し、その悔しさから大学でも陸上を続けようと、志望校を京都大学から陸上競技の強豪である早稲田大学に変えたのだとか。
当時、早稲田大学で篠田正浩さんを指導してくださったのは、後に瀬古利彦さんを育てた中村清さん。そして、中村清さんはライバルがひしめく中距離で世界を目指すのは難しいと言い、中距離のスピードで5000mを走り切れれば世界記録だとも話したそうです。
こうして長距離に転向した篠田正浩さんは箱根駅伝に出場し、早稲田大学の二区に走者に抜擢されたといいます。しかし、翌年には足の故障で走るのを断念せざるを得ない状況に。
現在でも大学駅伝には強い思い入れがあるようで、毎年、レースを熱心に見入っているそうですよ。
こうして長距離に転向した篠田正浩さんは箱根駅伝に出場し、早稲田大学の二区に走者に抜擢されたといいます。しかし、翌年には足の故障で走るのを断念せざるを得ない状況に。
現在でも大学駅伝には強い思い入れがあるようで、毎年、レースを熱心に見入っているそうですよ。
映画監督 篠田正浩 挫折が一番人間を鍛える – 早稲田ウィークリー
「松竹ヌーベルヴァーグのリーダー」と評され、数々の名作を精力的に世に送り出してきた篠田正浩監督。その篠田監督が、学生時代に箱根駅伝の名ランナーだったことは案外知られていない。
学生時代のこと、映画の話、そして34本目、ご自身の最後の作品としてまもなく公開される「スパイ・ゾルゲ」に...
白石かずこさんと結婚していた?
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しかし、結婚生活は長続きせず、間もなくして離婚してしまったようですね。
お二人の結婚生活に関わる情報はほとんどなく、結婚・離婚された時期も分かりません。ただし、白石かずこさんは、詩人として”離婚”にまつわる名言を残しています。
お二人の結婚生活に関わる情報はほとんどなく、結婚・離婚された時期も分かりません。ただし、白石かずこさんは、詩人として”離婚”にまつわる名言を残しています。
離婚は結婚した人間の選択できる生き方である――白石かずこ(詩人)
上記のリンク先では、この言葉に込められた意味も解説されていますので、併せてご覧になってみてください。
のこの言葉を残した彼女、篠田正浩さんとの離婚後は独身を貫いています。そうした事実を踏まえて考えてみても、この言葉に込められた想いは重いですよね。
のこの言葉を残した彼女、篠田正浩さんとの離婚後は独身を貫いています。そうした事実を踏まえて考えてみても、この言葉に込められた想いは重いですよね。
出身地 :岐阜県岐阜市
職業 :映画監督
活動期間:1960年~2003年