【訃報】作詞・作曲家の中村泰士さん死去。
作詞・作曲家として昭和の名曲を多数手掛けた中村泰士(なかむら たいじ)さんが20日、肝臓がんのため亡くなっていたことが明らかとなりました。81歳でした。
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【速報】作詞作曲家・中村泰士さん死去、81歳 「喝采」「北酒場」が日本レコード大賞https://t.co/MQeIpv5w3H
— 地震・ニュース速報@Yahoo!ニュース (@YahooTopicsEdit) December 24, 2020
中村さんは1939年、奈良県出身。18歳のときに内田裕也率いるバンド「ブルージーンズ」のボーカルとしてデビューした後、作詞・作曲家に転向。ちあきなおみ「喝采(1972年)」、細川たかし「北酒場(1982年)」で日本レコード大賞を受賞をしたのをはじめ、桜田淳子「わたしの青い鳥(1973年)」、いしだあゆみ「砂漠のような東京で(1971年)」など、昭和を彩る数多くの歌謡曲を作曲家として世に送り出しました。
その後は政界進出など多彩な活動を展開した中村さんですが、今年10月に肝臓の腫瘍が発覚。抗がん剤による治療を受けながら、12月5日に大阪で行った船上でのライブステージが最後の活動となりました。
その後は政界進出など多彩な活動を展開した中村さんですが、今年10月に肝臓の腫瘍が発覚。抗がん剤による治療を受けながら、12月5日に大阪で行った船上でのライブステージが最後の活動となりました。
「北酒場」で中村さんとタッグを組んだ作詞家・なかにし礼さんが死去。
昭和を代表する作詞家の一人であり、直木賞作家としても知られるなかにし礼さんが23日、心筋梗塞のため都内の病院で亡くなっていたことが明らかとなりました。82歳でした。
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なかにし礼さんが死去 作詞家、「北酒場」「石狩挽歌」https://t.co/QIC4GXn67A
— 日本経済新聞 電子版 (@nikkei) December 24, 2020
なかにしさんは1938年、当時の満州国出身。元々はシャンソンの訳詞を手掛けており、映画「太平洋ひとりぼっち(1963年公開)」を撮影中の石原裕次郎との出会いがきっかけで作詞家へと転向。以来、ザ・ピーナッツ「恋のフーガ(1967年)」、奥村チヨ「恋の奴隷(1969年)」、いしだあゆみ「あなたならどうする(1970年)」など多数のヒット曲を手掛け、1982年には細川たかし「北酒場」を中村さんと共作。その年の日本レコード大賞を受賞しました。
作詞家として活躍する一方で作家活動も展開し、1998年には小説「兄弟」で直木賞候補となり、2000年に「長崎ぶらぶら節」で第122回直木賞を受賞しています。晩年は持病の心臓病の療養を行っており、今年11月には体調を崩し入院。このたびの訃報となりました。
作詞家として活躍する一方で作家活動も展開し、1998年には小説「兄弟」で直木賞候補となり、2000年に「長崎ぶらぶら節」で第122回直木賞を受賞しています。晩年は持病の心臓病の療養を行っており、今年11月には体調を崩し入院。このたびの訃報となりました。
中村泰士、なかにし礼が遺した昭和の名曲!!
昭和を代表する作詞・作曲家である中村泰士さんとなかにし礼さん。彼らが世に送り出した楽曲は膨大な数にのぼっており、そのすべてをご紹介することはとても出来ないのですが、ここではミドルエッジ的に特筆すべき楽曲をいくつか軽く振り返ってみたいと思います。
細川たかし「北酒場」
まずご紹介するのは、中村さんとなかにしさんが共作した細川たかし「北酒場」。演歌というよりはむしろJ-POP寄りの軽快で覚えやすいメロディーであり、「欽ちゃんのどこまでやるの!」でも使用されたことから一躍大ヒットを記録しました。売上的には1982年度のオリコン年間第5位を記録。賞レース的には前述の通り日本レコード大賞を見事受賞しています。
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ちあきなおみ「喝采」
1972年に中村さんが作曲を担当した、ちあきなおみのシングル「喝采」。亡くなった恋人を思いながらステージで歌う歌手の姿を描いた楽曲で、当時「ドラマチック歌謡」「私小説歌謡」などとも呼ばれていました。発売からわずか3か月で日本レコード大賞を受賞する快挙を成し遂げています。
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ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」
今度は、なかにしさんの業績から。なかにしさんはザ・ドリフターズが60年代後半から70年代前半にかけて発表した楽曲の多くで作詞を担当しており、「ドリフのズンドコ節(1969年)」の補作詞のほか、「のってる音頭(1968年)」「冗談炭坑節(1970年)」「誰かさんと誰かさん(1970年)」などの作詞を担当しています。