幼少期からミュージシャンへの道のり
生い立ち
4歳の時、母が結核で病没。本所区横川国民学校(現在の墨田区立横川小学校)卒業。国民学校時代の教師に書道家の井上有一がいる。父・碇矢一郎(1908年 - 1995年)は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中で、この父について「私に一番影響を与えた、傑作な人物」と語っている。
1944年、戦争の激化に伴って静岡県の吉原(現:富士市)へ疎開。吉原第三中学校へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。以後、父は86歳で亡くなるまで生涯この地から離れることはなかった。
ミュージシャンへ
中学を卒業後、東京都立本所高等学校に進学、同校を中途退学後、静岡の製紙工場(春日製紙)に勤めながら、同僚らとハワイアンバンドを組み、ダンスホールで活動していた。当時のバンド仲間に元プロ野球選手の田村満がいる[1]。そもそも音楽を始めた動機が、女性に「モテたい」からだったという。
1959年にミュージシャンを目指して上京、最初の妻とともに新宿2丁目のアパートで暮らす。ミッキー・カーチスも在籍していたロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加後、カントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり(ギタリストは寺内タケシ)、立川や横須賀や横田の米軍キャンプで巡業。
しかし1961年12月31日、巡業の往路で交通事故を起こして、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の所属事務所と関係が悪化する。1962年、加藤茶と同時期に、小野ヤスシらが在籍していた「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。のちに桜井が引退しリーダーがいかりやに交代し「碇矢長一とザ・ドリフターズ」にグループ名を改称。しかしその後、諸事情から小野らは独立してしまう。
1964年に仲本工事、高木ブー、荒井注を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成。それとともに、ナベプロの傘下に入って、当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として、大々的に売り出した。ただし、いかりや自身が後に自著のあとがきで「師匠に付いたことはない」と記述しているとおり、クレージーの直弟子であったわけではない(クレージーにはいかりやより年下のメンバーも含まれていた)。なお、この時に「いかりや長介」名義での活動となった。
伝説のいかりや奏法
ベースにはチョッパー(スラップ)という奏法があるが日本でそれを広めたのはいかりや長介である。という話は今でも言われるが、これは残念ながらデマでウッドベースからエレキベースに転向した者たちにとっては親指引きは主流なので、いかりやが演奏している姿を見た若者たちが親指で弾いているいかりやを見て、いかりや奏法と名付けたと言われる。しかし、日本で一番初めにフェンダー製のエレキベースを使用したプレーヤーとしては間違いがないと言われる。
コミックバンド〜コメディアン〜そして晩年
コミックバンドとしての活動を続けながら、いよいよコメディアンとしてテレビデビューを果たす。そして、NHK「独眼竜政宗」での俳優デビューが評価され火曜サスペンス「取調室」では主役を務める活躍を見せる。
2000年には『ドリフだよ!全員集合(赤盤)』『ドリフだよ!全員集合(青盤)』をリリースし、その中でジョンポールジョーンズを思わせるプレイを見せ、ミュージシャンとしての実力が高いことを示している。
しかし2003年5月末、「原発不明頚部リンパ節がん」により緊急入院し、その後の闘病生活もむなしく、がんの転移が判明し2004年3月20日、死去が確認された。
みんなを楽しませ、笑わせ、大変な人生であったがその後に影響を与える素晴らしい人生だっただろう。
心よりご冥福をお祈りします。
2000年には『ドリフだよ!全員集合(赤盤)』『ドリフだよ!全員集合(青盤)』をリリースし、その中でジョンポールジョーンズを思わせるプレイを見せ、ミュージシャンとしての実力が高いことを示している。
しかし2003年5月末、「原発不明頚部リンパ節がん」により緊急入院し、その後の闘病生活もむなしく、がんの転移が判明し2004年3月20日、死去が確認された。
みんなを楽しませ、笑わせ、大変な人生であったがその後に影響を与える素晴らしい人生だっただろう。
心よりご冥福をお祈りします。
いかりや長介 - YouTube
via www.youtube.com
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