松田優作
松田優作について振り返ります。
松田優作「徹子の部屋」 - YouTube
松田優作の経歴
生い立ち
仲の良い2人の異父兄がいたが、自身の出生の秘密に気付き始めてから孤独を感じるようになる。
1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米。
しかしながら無断で帰国。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年に関東学院大学文学部に入学。
俳優へ
1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、山西道広、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。
また、1969年 (昭和44年) 頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、松田を推薦。
これがきっかけで、1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。
同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。これにより、通名だった松田優作が本名となった。
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暴力事件と復活
このため1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛。
1976年5月、東映『暴力教室』 (岡本明久監督) がクランクイン。これにより映画復帰を果たす。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。
1979年、村川透監督角川映画『蘇える金狼』 (翌年『野獣死すべし』)そして澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督) 。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。
この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。翌1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で主演。この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。
1981年、泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージを一新する役柄を演じる。
1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。
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病と死去
その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。
1989年11月6日、午後6時45分に入院中の東京都武蔵野市にある西窪病院 で膀胱癌の腰部転移のため、40歳で死去した。法名は天心院釋優道。松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん!起きてください!早すぎるよ!!」と泣き叫んだという。
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松田優作の人物像
アクションスターから強烈なカリスマへ
デビュー時はアクションスターとして注目されたが、演出家に対して徹底して食いついて演出面にも追求するなど芝居に対して非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。
強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じたキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、漫画『北斗の拳』の主人公ケンシロウもパーソナリティ面で松田をモデルとしてスタートした。
性格は短気な傾向があり、興奮すると手が出ることも多かったそうであり、ボクサー型の体型から繰り出されるパンチの威力は相当なものであった。しかし、むやみやたらに暴力を振るっていたわけではなく、自分の信条に反する言動をされた時のみだったという。
また、その一方で自分の仲間を非常に大事にし、水谷豊、丸山昇一、佐藤蛾次郎、萩原流行など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。佐藤は後年「優作ほど先輩を立てる役者はいなかった」と振り返っている。
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アツい男、松田優作
『太陽にほえろ!』を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、「走る姿を研究しろ」と答えたという。そもそも松田の前任だった萩原健一を番組出演へと説得する際に監督の竹林進が言った「きみの走ってる姿を撮りたい」を基本コンセプトに、「走る」事は同番組の代名詞として後々まで受け継がれた。
『大都会PARTII』の撮影中、ロケ現場ではしゃいでいる子供にからわれた事があり、その際「考えると俺達って昼間からこんなおかしい事をやっているんだよな…」と自分が一般とは違う世界で生きているのに気づき、それを期に「よし、誰にも文句を言わせない作品を撮るぞ!」と決心し、それが後のモチベーションにつながった。
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から東映セントラルフィルム作品、角川映画作品でアクションスターとして人気を博し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。
主演したドラマ『探偵物語』など、後進への影響も大きく、男気に溢れ情に厚く、その勇猛な人間性と卓越した演技力から、1980年代を通じてもっとも重要な日本の映画俳優の1人、カリスマと評される。