千代の富士の「プロレス転向」の噂!
ご存知でしょうか。千代の富士が角界からプロレスへと転向することが真剣に計画されていたことを。
時は遡り、1978年(昭和53年)※1 。漫画原作者の梶原一騎が自ら出資者となり設立を計画していた団体、それが「大日本プロレス」 ※2でした。
しかし、団体の設立目前で頓挫し、実現は叶ませんでした。しかし、タラレバを考えた際に、もし団体設立が実現していたら「昭和最後の大横綱」である千代の富士は誕生していなかったことになります。
千代の富士の「プロレス転向」の真相に迫ってみます。
※1 1983年(昭和58年)という説もあります。
※2 グレート小鹿らが設立した大日本プロレスとは異なります。
時は遡り、1978年(昭和53年)※1 。漫画原作者の梶原一騎が自ら出資者となり設立を計画していた団体、それが「大日本プロレス」 ※2でした。
しかし、団体の設立目前で頓挫し、実現は叶ませんでした。しかし、タラレバを考えた際に、もし団体設立が実現していたら「昭和最後の大横綱」である千代の富士は誕生していなかったことになります。
千代の富士の「プロレス転向」の真相に迫ってみます。
※1 1983年(昭和58年)という説もあります。
※2 グレート小鹿らが設立した大日本プロレスとは異なります。
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この幻と消えた話は、大日本プロレスに必要となるエース候補として、当時相撲界の人気力士だった高見山と千代の富士に白羽の矢が立ったというのが定説となっています。
ジェシーこと高見山は、1972年7月に史上初めて外国出身力士による幕内最高優勝を成し遂げた名力士。しかし、1978年には34歳を超えベテランの域に達しており、三役入りもなくなりますが、「40歳まで相撲をとりたい」「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と満身創痍の中でも奮闘し、幕内連続出場1231回という記録を達成しています。
ジェシーこと高見山は、1972年7月に史上初めて外国出身力士による幕内最高優勝を成し遂げた名力士。しかし、1978年には34歳を超えベテランの域に達しており、三役入りもなくなりますが、「40歳まで相撲をとりたい」「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と満身創痍の中でも奮闘し、幕内連続出場1231回という記録を達成しています。
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また、1978年の千代の富士は、前年に熱心にスカウトしてくれた師匠の九重親方が亡くなり、また相撲においても脱臼癖が治らず、不遇の時代を過ごしていました。しかしながら、同年1月場所には再入幕を果たし、5月場所の貴ノ花戦では大関戦初勝利と勝ち越しを同時に手にするなど、徐々に実績を積んでいる状態でもありました。
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関脇として知名度抜群だった高見山と将来が期待される千代の富士をエース候補に据えるといった組み合わせは、バランスが取れているように感じます。また、当時は角界からプロレス界への転向も一般的でしたので、もし大日本プロレスが設立されていたら、現役の力士の参戦は、プロレスファンに好意的に受け取られていたのではないでしょうか。
YouTube「幻と消えた千代の富士の「プロレス転向」!計画が頓挫した理由とは!?」
本稿をベースにYouTube版の動画を製作しました。様々な人物が大日本プロレスの団体設立に関与していたとされる一連の計画。何故頓挫したのか、当時の千代の富士にも迫っています。是非ご覧ください。
筋骨隆々の千代の富士はレスラー向きの体型でした!
幻と消えた千代の富士の「プロレス転向」!計画が頓挫した理由とは!?
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旬な人物・梶原一騎が出資者だった!
そして、団体を支えるお金に関してですが、出資者の梶原一騎が出資額として準備していたのは1億5千万円。梶原は70年代に芸能プロダクションや三協映画を設立し、漫画アニメ以外の分野への進出を成功させており、ビジネスの才覚を発揮して非常に勢いづいていました。
また、梶原が世に放ったキャラクターである「タイガーマスク」が、1981年4月に新日本プロレスで実際にデビューしたことからも、1978年当時にはすでにプロレスというコンテンツに注目していたのではないでしょうか。
また、梶原が世に放ったキャラクターである「タイガーマスク」が、1981年4月に新日本プロレスで実際にデビューしたことからも、1978年当時にはすでにプロレスというコンテンツに注目していたのではないでしょうか。
また、放送の担当局はフジテレビの予定でした。
1980年前後のフジテレビといえば、ザ・ドリフターズによる「ドリフ大爆笑」が視聴率40%超えを果たし、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズで「オレたちひょうきん族」などの大ヒットバラエティを連発していた時期。
1980年前後のフジテレビといえば、ザ・ドリフターズによる「ドリフ大爆笑」が視聴率40%超えを果たし、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズで「オレたちひょうきん族」などの大ヒットバラエティを連発していた時期。
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さらに70年代後半のビューティ・ペア人気もあって、フジテレビは1977年から1979年にかけて「女子プロレス・真赤な青春」と題したレギュラー番組を放送していました。30分番組ではあったものの、金曜日の夜7時とゴールデンタイムでの放送で、80年代中盤に起こるクラッシュギャルズらがけん引する女子プロレスブームの下地を作っています。
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ライモン 2022/5/23 01:12
千代の富士がもしレスラーになっていたら、千代の富士をモデルとした『キン肉マン』のウルフマンの実写版になっていたかも。
Grand sumo show-wa 🐺 🏝 2022/5/21 03:37
両関取土俵に留まり大正解だったかも・・・
もしリングへ往っちゃえば「国民栄誉」だ、などなかったかもしてないし・・・
「2倍!2倍!」なんてできなかったかも・・・