ジュニアヘビー級である渕は鶴田、天龍、三沢、川田らのヘビー級レスラーにメインを任せていましたが、三沢率いるNOAH旗揚げによる選手大量離脱の際には川田と共に全日本に残り、新日本プロレスを巻き込み全日本を守るべく前線でファイトしました。
そんな渕正信選手のデビュー時からの経歴を紐解いてみましょう。
そんな渕正信選手のデビュー時からの経歴を紐解いてみましょう。
[Top Gun] Danger Zone 歌詞・日本語訳付き - YouTube
渕正信のテーマ曲「Denger Zone」
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ジャイアント馬場に憧れて全日本プロレス入門
1954年1月14日、福岡県北九州市戸畑区生まれ。身長183cm、体重105kg。血液型はB型。
八幡大学付属高校時代はレスリングと陸上競技で鍛えあげる。八幡大学進学も中退し、日本プロレスへ入門を目指し上京するが、列車の中で読んだ九州スポーツで、日プロの崩壊を知り、一旦九州に帰る。
その後1974年4月10日に全日本プロレス入門(理由はジャイアント馬場に憧れていたから。新日本プロレスもすでに旗揚げされていたが、日プロ時代のファンである渕は「馬場さんと猪木さんでは、スターとしては格がまったく違うじゃないですか」と後に語っている)。
入門わずか12日で徳島県三好市(旧池田町)四国電力横広場での大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田とハル薗田(薗田一治)と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。
海外武者修行で大仁田と大暴れ
1980年に海外武者修行に出発、プエルトリコにて大仁田と合流し、1981年3月よりマサ・フチ(Masa Fuchi)のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、大仁田とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争い、同タイトルを通算3回獲得した。
1981 Sexton/Price vs SO Tag Champs Masa Fuchi/Atsushi Onita 04-11-81 MEMPHIS WRESTLING - YouTube
CWA Memphis Wrestling 1981
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実況のアナウンサーが試合前の選手紹介で、長崎出身の大仁田に対して、渕を広島出身と紹介しています。アメリカ人に分かりやすい日本人キャラクターとしてプロモートしていたのでしょう。
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世界ジュニア王者として君臨
全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月にはチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。
その後は、ジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。
ジュニアの魔豹
最多戴冠記録:5回・・・渕正信(3, 6, 10, 12, 15代)
最多連続防衛:17回・・・カズ・ハヤシ(第28代王者時代)
最多通算防衛:24回・・・渕正信
最長保持期間:1309日・・・渕正信(第10代王者時代)
世界ジュニアヘビー級王者として、数々の記録を打ち立てた。ちなみに連続防衛回数記録は2位の14回(第10代王者時代)である。
赤鬼
渕が開発した低空ドロップキックの開発は多くのプロレスラー、特にジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を及ぼす。低空ドロップキックと無数の関節・ストレッチ技、ナックルパートや顔面キック、アトミック・ドロップの体勢からの急所攻撃など、テクニックとラフを兼ね備えた観客を強く刺激するファイトスタイルを確立してジュニアのみならず三沢らヘビー級とも堂々渡り合い、「赤鬼」の異名を取る。
「赤鬼」の異名は、渕は肌が色白のため相手レスラーからチョップなどをくらうと胸板が赤くなるところからも「赤鬼」と呼ばれる由来となりました。