黒柳徹子「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」「窓際のトットちゃん」「ユニセフ親善大使」「笑っていいとも!」「世界・ふしぎ発見!」
2022年8月15日 更新

黒柳徹子「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」「窓際のトットちゃん」「ユニセフ親善大使」「笑っていいとも!」「世界・ふしぎ発見!」

衝撃の「徹子の部屋」第1回放送。「ザ・ベストテン」開始。戦後最大のベストセラー「窓際のトットちゃん」発売。ユニセフ親善大使任命。「笑っていいとも!」ジャック事件。「世界・ふしぎ発見!」における草野仁、スタッフとの戦い。

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サザンオールスターズが1位になったとき、番組はお祝いとして生きた鯛を用意。
徹子は、それを手で持って渡そうとしたが、ピチピチと跳ねて落としてしまい、
「あなたにあげるんだから早く拾いなさい!
バタバタしてるじゃない!」
と叫び、桑田佳祐に拾わせた。
シブがき隊は、22曲もランクインを果たした番組有数のレギュラーだったが、3人共、小泉今日子が大好きで、共演するとキョンキョンの隣に座るためにバトルを展開。
「歌い終えた人がソファーのどこに座るか、自分たちで決めていいんですよ。
だから自分たちの歌が終わると、マイクを音声さんに渡して猛ダッシュ」
チェッカーズや吉川晃司がデビューし、ベストテンの常連となると、布川敏和や本木雅弘は交流しようとしたが、マジメな薬丸裕英は
「ジャニーズのタレントは他事務所の男性アイドルと親しくしない」
という事務所のルールに従い、それを許さず
「お前ら、吉川やチェッカーズにどれだけ俺らのファンを持って行かれたと思っているんだ」
と説教。
あるとき歌っていると、ミラーボールのような回転する照明に本木雅弘のマイクのコードに絡んで巻き取っていくハプニングが発生。
すると徹子はADよりも早く飛んでいき、照明を逆回転させてコードを戻した。
シブがき隊は
「さすが黒柳さん」
と感心した。

松田聖子 名曲集 (ザ・ベストテン)

松田聖子は、ランクインする前に「スポットライト」コーナーで「ザ・ベストテン」に初登場。
そのとき徹子は、まだデビュー3ヵ月の松田聖子を
「他の歌手のみなさんが番組中に出す飲みものは何でもいいですっておっしゃっている中、1人だけクリームソーダがいいっていって、放送中にソファでアイスを食べていたんです。
それでちょっと大物かもしれないって思いました。
初出演で私だったらクリームソーダなんて食べられないわって」
と評価。
2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で初めてランクインし、羽田の飛行場で歌う松田聖子に対し、久米は
「こんなに細々していて芸能界でやっていけるかな」
とコメント。
徹子は
(本当に女の人を見る目がないな)
と思った。
「青い珊瑚礁」は、その後、ランキング1位を獲得。
(1980年9月18日、以後、3週連続1位)
18歳で九州の田舎から単身上京し、初めて1位に輝いた松田聖子は、福岡県の母親と中継がつながると
「お母さーん」
と涙声で呼びかけた。
徹子はステージに移動する聖子の顔をハンカチで拭い
「泣いていましたね」
といったが、久米は
「いや、涙は出ていなかったような気がする」
と発言。
たしかに顔をくしゃくしゃにしながらも涙は流れていなかった。
「♪ あ~~私の恋は~~南の風に乗って走るわ~♪」
歌が始まっても泣き顔&聖子スマイルで、しかし涙は流さない松田聖子をみて
「さすがプロ!」
と評価する視聴者もいたが、多くは
「ウソ泣き」
「ブリッ子」
というイメージを定着させた。
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1981年1月、トモエ学園の思い出をユーモアあふれる文体で綴った「窓際のトットちゃん」が出版開始。
徹子は、公立の小学校に入学するも、活発すぎて、3ヵ月後、母親が呼び出され
「お嬢さんがいるとクラス中の迷惑になります」
といわれて退学。
今でいうADHD、ASD、LDなどの障害のある子供と判断されたのかもしれない。
そして日本初のリトミック教育(音楽、演劇、ダンスなどを多用して楽しく学ぶ教育)を導入したトモエ学園に転校。
席も自由、時間割も自由、その日の気分で好きな席に座り、各自のペースで勉強するというスタイルの下、友達と一緒にノビノビと元気よく育った。
本のタイトルの「窓際」 は、転校前の小学校で、徹子さんが授業中に歩いて窓際でチンドン屋さんを待っていたことや、学校で何となく感じていた疎外感、「窓際族」に由来する。
「トットちゃん」は、徹子のあだ名で、小さい頃、自分のことを「テツコ」といってるのに舌足らずで「トット」といっていたことに因んでいる。

「窓際のトットちゃん」は、世界36ヵ国で翻訳され、累計800万部を記録する「戦後最大のベストセラー」となり、徹子は、1981年から1985年までの5年間と1987年に高額納税者ランキングの俳優・タレント部門で1位となった。
38歳でニュースアナウンサーとなり、40歳を過ぎてから「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」を始め、40代後半で「窓際のトットちゃん」を出版し、若い頃、「邪魔」といわれた個性も認められ、この頃の徹子は非常にモテたという。
「個性を磨こうとするとき、1番邪魔になるのが虚栄心ね。
野心を抱いている男の人だけじゃなくて、普通の女の人でも自分をよく見せようとかこれを持っていないと悔しいとか、そういうレベルの見栄とか虚栄心を持たなければ、自分のどんな些細な個性であっても誇りをもって生きていけると思うんです。
まずは自分と人を比べないこと。
ありのままの自分を受け入れること。
ただし努力は必要!」
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「窓際のトットちゃん」の印税で「トット基金」を設立した徹子は、プロのろう者の劇団「日本ろう者劇団」の理事長となった。
「日本ろう者劇団」は1980年4月、演劇の好きな仲間が集まり「東京ろう演劇サークル」として発足。
手話狂言、創作劇、ムーブメントシアター、サインマイムなど視覚的なことに重点をおいて、聞こえる人も聞こえない人も共に楽しめるものを目指して活動。
そしてトット基金の付帯劇団となって「日本ろう者劇団」と改称された。
「私の著書「窓ぎわのトットちゃん」が大評判となり、その印税をもとに設立したのがトット基金です。
トット基金では2つの大きな事業をやっています。
1つめは、就労継続支援B型施設「トット文化館」の運営です。
トット文化館では、利用者の皆さんが野菜や花を育てて販売したり、エコ袋を作ったり、職員と一緒に様々な作業をしています。
館内では、聞こえる人も聞こえない人も、手話で話をしています。
静かなのに、とても賑やか。
それがどんな風に素晴らしいか、ホームページをご覧頂き、よろしければぜひ遊びにお出で下さい。
手話を習いたいかたのための手話教室もあります。
もう1つの事業は、「日本ろう者劇団」の運営です。
日本ろう者劇団では、俳優達が、日本の伝統芸能でユネスコの世界無形遺産にもなっている狂言や、そのほかの演劇を手話で演じ、全国各地で公演しています。
ろう者の俳優が、テレビにも出演して手話の普及につとめています。
聞こえる人も聞こえない人も一緒に楽しめる演劇を作ったことで、文化庁芸術祭賞や内閣総理大臣表彰も受けました。 
また世界の色々な国からお招き頂いて、手話狂言を披露しています」
という徹子は、自身も手話を使うことができる。
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1984年、徹子はユニセフ親善大使に任命され、アフリカのタンザニアを訪問。
子供ことをスワヒリ語で「トット」ということを知って、驚き、その偶然に感謝した。
ユニセフ親善大使を引き受けることにした大きな理由は、緒方貞子(日本人初の国連難民高等弁務官)から自分自身がユニセフの恩恵を受けていたことを教わったことだった。
「第2次世界大戦後、ヨーロッパをはじめほとんどの子供たちが飢えてる中、アメリカなどは『日本とドイツの子供には食料を送らなくてもよい』といっていたそうです。
ところがユニセフの初代事務局長のモーリス・ペイトさんは『子供達には敵も味方もないのだから』と日本に対して物資を送り続けてくださった。
何の見返りも考えないで敗戦国の子供に。
そうやって私たちは人からの愛情や思いやりを受けているんです」

1984年 - タンザニア
1985年 - ニジェール
1986年 - インド
1987年 - モザンビーク
1988年 - ベトナム、カンボジア
1989年 - アンゴラ
1990年 - バングラデシュ
1991年 - イラク
1992年 - エチオピア
1993年 - スーダン
1994年 - ルワンダ、旧ザイール
1995年 - ハイチ
1996年 - ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア
1997年 - モーリタニア
1998年 - ウガンダ
1999年 - コソボ、アルバニア、マケドニア
2000年 - リベリア
2001年 - アフガニスタン
2002年 - アフガニスタン
2003年 - ソマリア
2004年 - シエラレオネ
2005年 - コンゴ民主共和国
2006年 - インドネシア
2007年 - アンゴラ
2008年 - カンボジア
2009年 - ネパール
2011年 - ハイチ、東北地方(日本)
2013年 - 南スーダン
2014年 - フィリピン
2016年 - ネパール
2017年 - ミャンマー

と1年1ヵ国のペースで、27年間、飢餓、戦争、病気に苦しむ世界の子供たちを訪ね、テレビを通してその実情を伝える活動を続けた。
インフラが整わず、健康面が危惧され、肉体的に負担が大きく、また地雷や殺戮も存在する危険な地域も多く
「なぜ行くのか? 」
「怖くないの?」
「何かあったらどうするの?」
と聞かれると
「何かあったら、その時はその時ね」
と答えた。
「戦争を経験してきた人間って、そういう所がありますよ。
だっていつ死ぬか分からなかったんですから・・・」
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「やってあげる」
という支援ではなく、トモエ学園時代の経験、
「皆、一緒に行う」
というのが活動の基本姿勢。
「世界を広くみること、いろんなことに関心を持つこと、よその国で悲しい事件があったら知ろうとすること。
そういうことも大切ね。
『自分は大丈夫、だから関係ない』ではなくて。
何も海外に出てボランティアをするってことじゃなくてもいいの。
ちょっと知っておくってことだって、何か人に優しくできることにつながると思うんですよね。
隣のおばあさんに『スーパーに行きますけど何か買ってきましょうか』って声をかけるとか。
そのほうが、自分自身も豊かな人生を送れると思うの」
個人的にも募金を募り、これまでに寄せられた50億円以上を、事務処理費用など一切引かず、ユニセフの本部へ送金。
ちなみにユニセフ親善大使としての報酬は、年間1ドル(アメリカドル)だという。
「緒方貞子先生の紹介で始めたユニセフ親善大使の仕事は、私自身の戦争の体験が生きています。
極限までおなかが減るというのはどういうことなのか、夜に親がそばにいないというのはどんな気持ちなのか、1つの家族がバラバラになるというのは・・・・
自分が経験したことをまたみているような気持ちです。
私ができることは、訪れた国で子どもたちがどういう暮らしをしているか、テレビを通じて広く報告すること。
大人のせいで子どもがこんなひどい目にあっているということを伝える責務があると思っています」

笑っていいとも 伝説の黒柳徹子の番組ジャック 完全版 1984年3月14日放送

1984年3月14日、「笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」に初出演。
通常、15分程度のコーナーで43分にしゃべり続け、後のレギュラーコーナーを1つ潰した上、エンディングにも出演。
「番組ジャック」
といわれた。
「黒柳さんは『この話をするね』と。
CM明けてその話をすると、またCM中に『この話をするね』と隙間がない」
(タモリ)
「人間って1人でずっといて、しゃべらないでいると、必ず絶望へと向かっていくものなんですって。
だから気分が沈みそうになったら、どこでもいいから人のいるところに行くといいそうです」
(黒柳徹子)
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1985年、高額納税者ランキングの俳優・タレント部門で1位の徹子は、政府の税制調査会に参考人として招かれ、
「現在の私の収入の90%が税金。
1時間の番組の何分か話したら後は全部税金。
原稿用紙400字詰めの2行書いたら、後の18行は全部税金。
勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。
最高税率を10%下げて欲しい。」
と発言。
2年後、最高税率が60%まで下がった。
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1986年、「世界・ふしぎ発見!」が放送開始。
この30年以上続く長寿番組に初回から毎回出演。
「みんな回答が遅いから収録が延びて、この26年間、収録後に人に会えなかった。
だから私の婚期が遅れているの。
いつも番組で新婚旅行先はどこがいいか考えていたのに」
板東英二に
『お母さん』
と呼ばれ
「年齢はあまり変わらないのに。あなたのような子供を産んだ覚えはない」
と答えるなど徹子節全開で、司会の草野仁、板東英二、野々村真らと「アタマもはしゃぐサタデーナイト」という番組キャッチコピーにたがわぬトークを展開。
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