なぜ、あの人が?中高年男性芸能人の自殺、ミッドライフ・クライシス
2021年6月19日 更新

なぜ、あの人が?中高年男性芸能人の自殺、ミッドライフ・クライシス

戦後の日本において音楽業界を黄金時代に導いた芸能人であり、70年代80年代の洋楽・ポップカルチャーの牽引役を務めた。時代とともに生きた男が自ら命を断った。中年期に訪れるミッドライフ・クライシス。4人の中高年男性芸能人の自殺と生きた軌跡を紹介する。

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夕陽を見て…我思う、ゆえに我あり

夕陽を見て感動した青春の日々、明日への情熱がメラメラと燃えていた。
しかし、ある時から沈む夕陽と見ると辛くなった。なぜ辛いのか…命の限界に近づいているからではないか。残りの人生をどう生きるか…寂しさと不安が頭をよぎる。そんな時に訪れるミッドライフ・クライシス、中年の危機だ。
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更年期障害は女性だけでなく男性にもあるという。中年期の心の葛藤や性的な衰えから不安定な心理状態になるのだ。我思う、ゆえに我あり。

加藤和彦 (1947年3月21日 - 2009年10月16日)62歳没

加藤和彦は生涯で3回の結婚している。子供の頃には関東と関西を3回転居。音楽活動ではシングルレコードの発売停止を体験している。

京都市伏見区に生まれ、すぐに神奈川県に移り、鎌倉と逗子市で小学校4年まで過ごし、その後京都に戻り1年で東京に転居、高校卒業まで日本橋で育った。

高校の時にギターを始め東京都立竹台高等学校を卒業後、京都の龍谷大学に入学。大学時代にアマチュア・フォークグループ、「ザ・フォーク・クルセダーズ」結成。1967年に大学を中退してプロデビューした。1968年に2枚目のシングルとして予定していた『イムジン河』が発売中止になってしまう。同年7月にアルバム『紀元貮阡年』のシングルが発売されるが10月にザ・フォーク・クルセダーズは解散した。

ソロ活動の傍らサディスティック・ミカ・バンドを結成、作曲家としての楽曲の提供を始める。1971年4月5日、北山修との連名によるシングル『あの素晴しい愛をもう一度』を発表。加藤に人生のピークが訪れた。

パナソニック ホームズのCMに使われた『家をつくるなら』は加藤和彦の作品だ。
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ガーディニア
加藤和彦 Format: Audio CD
1970年7月に福井ミカと結婚。妻のミカはイギリスツアー中に『黒船』のプロデューサー、クリス・トーマスと、恋愛関係になり離婚。

1977年、8歳年上で作詞家の安井かずみと再婚。1994年3月17日、安井かずみは肺癌のため死去。2012年3月に加藤と安井のドキュメンタリードラマ『優雅な生活が最高の復讐である 〜加藤和彦・安井かずみ最期の日々〜』(NHK)が放映される。

1995年、クラシック音楽のソプラノ歌手、中丸三千繪と再々婚するが2000年に離婚。

2009年10月16日に加藤は1人で長野県北佐久郡軽井沢町のホテルに宿泊、翌17日午前9:25ごろ、ホテルからの連絡で駆けつけた長野県警・軽井沢署員がホテルの浴室で首をつって死んでいる加藤を発見した。部屋には遺書らしい文章が残されていたことから、死因は首吊りによる自殺と見られている。享年63(満62歳没)。

加藤は音楽界の状況と今までの音楽活動と自己の存在について悩みうつに陥り通院していたという。遺書には「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」と記されていたという。

葬儀は加藤の遺志により喪主を立てない無宗教方式の密葬で行われた。坂崎幸之助などの親しい関係者が約100人が別れに訪れた。

井上大輔(1941年9月13日 - 2000年5月30日)58歳没

井上は、東京都出身。日本大学豊山高等学校、日本大学芸術学部卒業。1963年にジャズ喫茶で演奏している時にジャッキー吉川にスカウトされ「ジャッキー吉川ブルー・コメッツ」に参加、井上忠夫の芸名でリード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当した。

1972年のグループ解散後は、作曲家に転向、フィンガー5「恋のダイヤル6700」「学園天国」やシャネルズ「ランナウェイ」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」など数多くのヒット曲を発表した。1981年に井上大輔に改名。『機動戦士ガンダム』シリーズの主題歌、コカ・コーラのCM曲「I FEEL COKE」がヒットする。井上 大輔は順調な音楽人生を歩んでいた。
井上大輔

井上大輔

井上大輔 主題歌・CMワークス
井上大輔(旧芸名:井上忠夫) (アーティスト) 形式: CD
2000年3月に網膜剥離の手術を受けるが、思っていたようには回復しなかった。
2000年5月30日病気の妻の看病疲れと、自身の網膜剥離の経過が思わしくないことを苦に東京・六本木の自宅で首をつっているのを妻洋子さんに発見された。

12月1日にTBS赤坂ACTシアター『井上忠夫音楽葬』が開催され、堺正章や内田裕也ら出席した。

翌年の2001年9月15日に自宅内で妻の遺体が発見され自殺と断定された。

二人に子供はいない

今野雄二(1943年10月5日 - 2010年8月2日)66歳没

今野雄二の多彩な活動を振り返ってみよう。1943年10月5日に北海道室蘭市に生まれ、国際基督教大学教養学部語学科卒業。平凡出版(後のマガジンハウス)に入社。1964年4月に創刊された男性向け週刊誌『平凡パンチ』の編集に携わる。そして、2年後『平凡パンチ』は発行部数100万部を突破した。

次に今野が携わる事になったのは、1970年3月に創刊されたフランスの女性ファッション誌『ELLE』の日本語版『anan』だった。1971年に集英社が『non-no』を創刊すると両誌の女性読者は「アンノン族」と呼ばれるようになり70年代の流行のひとつとなった。男性誌、女性誌の編集を経て、今野雄二は評論家として独立した。

そして音楽の分野にも進出した。1972年4月から1975年3月までフジテレビにて放送された日本初の洋楽番組「リブ・ヤング」で 映画情報を紹介。1977年には、立木リサと歌った『気分を出してもう一度』(二十才の頃)をシングルリリースしている。
今野 雄二

今野 雄二

今野雄二映画評論集成
Tankobon Softcover – June 12, 2014
by 今野雄二 (著), 石熊勝己 (編集)
1980年代には、深夜のテレビ番組『11PM』の水曜イレブンに出演。司会の愛川欽也から「今ちゃん」の愛称で親しまれ、番組内で映画や音楽を紹介。TOKYOFMで放送されていた音楽トークラジオ番組『サタデーアドベンチャー』では1981年3月まで「今野雄二のセレクション・ナンバー」コーナーのパーソナリティを努めた。

また音楽評論家としては、ロキシー・ミュージック、ミッシェル・ポルナレフ、ニューオーダーなど、多数のレコードのライナーノーツを担当。音楽雑誌「ミュージック・マガジン」へ記事を寄稿していた。

1984年に日本メンズファッション協会が選ぶ、ベストドレッサー賞を受賞。1986年には石井明美『CHA-CHA-CHA』の日本語訳詞を書き大ヒットへ導いた。

今野雄二の多彩な活動は続く、文筆家としてファッション雑誌にコラムを書く傍ら小説家として小説に『天国の車庫』『きれいな病気』評論集『恋する男たち』などを発表した。小説ではゲイ男性のラブストーリーやエイズを取り上げている。

80年代の洋楽全盛期のポップス評論以降、映画評論家としてメインに活動していく。

また今野雄二はNYのゲイクラブシーンを日本に紹介するなどゲイカルチャーを積極的に支持していたことから。今野自身に同性愛の噂があり、カミングアウトしていないがゲイ、オカマの今ちゃんとも言われていた。

2010年8月2日午後5時40分ごろ、東京都渋谷区代官山町のマンションで首をつって死んでいるのを関係者が発見した。死後数日が経過していたとみられる。今野雄二は一人暮らしだった。遺書は見つかっていない。自殺と見られる。

今野雄二の恵まれた感性と繊細な神経、そしてマイノリティゆえの細やかさが、孤独を招き死の世界へ旅立ってしまったのだろうか。

今野が住んでいた代官山は、1970年代以降1980年代にファッションと文化の街としてブレイクした。当時の『東急アパート』には、デザイナーやカメラマンなどクリエイティブな人たちが住んでいた。

加瀬邦彦(1941年3月6日- 2015年4月20日)74歳没

時代とともに生きた男、加瀬邦彦は、第二次世界大戦中の東京で生まれた。慶應義塾高等学校1年生の時に神奈川県茅ヶ崎市に引っ越す。当時慶応大学に在学していた加山雄三も茅ヶ崎に住んでいた。慶応の先輩後輩が縁で湘南ボーイの二人は親交を深めたという。1961年に最初のバンドザ・トップビーツを結成する。

高度成長期にはグループサウンズとして活躍した。ホリプロに所属し1963年にはスパイダースにリズム・ギターとして2ヵ月間在籍した。寺内タケシの誘いで寺内タケシとブルージーンズに加入し活動。1966年7月にザ・ワイルドワンズを結成、渡辺プロに移籍した。1966年11月にリリースした『想い出の渚』がデビュー・ヒット曲となる。得意の12弦ギター奏でる加瀬は、加瀬邦彦は、当時流行にしたアイビールックに身に包み爽やかなシティボーイを気取っていた。

また、作曲家として歌謡界に多数のヒット曲を送り出した。ザ・ワイルドワンズは1971年秋に一旦解散した。加瀬は沢田研二の楽曲の作曲を担当するようになる。1973年に『危険なふたり』が大ヒット、作詞家の安井かずみとともに沢田の全盛期の曲を制作した。
加瀬邦彦 (中央前)

加瀬邦彦 (中央前)

加瀬邦彦 ザ・ワイルドワンズ 12CD-1175N
加瀬邦彦 (アーティスト), ザ・ワイルドワンズ (アーティスト) 形式: CD
1975年、加瀬邦彦は34歳の時に10歳年下の客室乗務員と結婚、2人の息子がいる。

1994年53歳の時に食道がんを患い、食道と胃の3分の2を摘出する手術を受ける。2006年には日本武道館で「加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ」結成40周年公演を開くほど回復していた。
2014年に咽頭がんを患い、3月に声帯切除の手術うけ成功するが声を失う。自宅で治療を続けながら食道発声法を練習するが、歌手生命を断たれることなる。

2014年7月音楽活動の休止を発表、翌2015年4月20日午後9時に自宅で自殺を図り死亡した。
リハビリ生活で身に着けていた呼吸器を自ら、ふさいだ状態で発見されたのだ。復帰に向け自宅療養していたが4月はじめから体調が優れず精神的に不安定になっていたという。享年74歳。

敗戦から高度成長バブル時代へ成長していった日本、同じ時を音楽とともに輝かしく生きた加瀬邦彦が選んだ最期だった。

28日、東京・護国寺の桂昌殿で葬儀・告別式が営まれ、ザ・タイガースの岸部一徳、瞳みのる、森本太郎ら約380人が参列した。
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