低迷するジャイアンツを見ていて連想する、1979年「地獄の伊東キャンプ」
低迷が続く読売巨人軍。今シーズンの順位は、80試合を終えて暫定第5位(2017年7月10日時点)。5月25日~6月9日にかけては、13連敗を喫するという、不名誉な球団新記録まで残してしまいました。果たしてこの先、巻き返すことはできるのでしょうか?…注目していきたいところです。
【巨人】西武に2―13大敗…球団ワースト更新13連敗 : スポーツ報知
巨人は、球団ワースト記録を更新する13連敗を喫した。先発の池田が序盤から西武打線に捕まり3回途中7失点でKO。後を受けた江柄子も4回、5回と失点を重ねた。 打線は、6回に阿部の適時打などで2点を返すのがやっと、借金は2【巨人】
前代未聞の13連敗は、巨人ファンを落胆させた
弱体化したジャイアンツで連想されるのが、1979年秋に実施された「地獄の伊東キャンプ」。長嶋茂雄第1次政権5年目となったこの年、巨人はペナントレースを第5位でフィニッシュ。2年連続で優勝を逃すという、常勝軍団としては屈辱的な結果を残してしまいます。
江川卓・篠塚和典・中畑清など、若手選手18人を集めて行われた
かつての栄光を取り戻すべく、長嶋監督は、実に43年ぶりとなる秋季キャンプの復活を決意。この時、特に急務だったのが、若手の育成。39歳になった王貞治をはじめ、主力の多くが高齢化していたために、次世代を担う若い力を徹底的に鍛え上げる必要がありました。
集められたのは、野手では中畑清(当時25歳)、松本匡史(当時25歳)、篠塚和典(当時22歳)ら12名、投手では江川卓(当時24歳)、西本聖(当時23歳)、鹿取義隆(当時22歳)ら6名。この18人の若武者たちが、25日間に及ぶ秋季キャンプを戦い抜くのです。
集められたのは、野手では中畑清(当時25歳)、松本匡史(当時25歳)、篠塚和典(当時22歳)ら12名、投手では江川卓(当時24歳)、西本聖(当時23歳)、鹿取義隆(当時22歳)ら6名。この18人の若武者たちが、25日間に及ぶ秋季キャンプを戦い抜くのです。
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朝が来るのが怖くて、眠ることができなかった…
当時の投手コーチ曰く、長嶋からは「巨人の将来を背負って立つ若手を徹底的に鍛えたい。血ヘドを吐かせるまでやらせる」と指示を受けていたといいます。
そのためメニューは過酷を極め、投手は最低10キロの走り込みを行い、投げ込みは200球~300球。早朝から日が暮れるまで断続的に身体を酷使し、終わるころにはみんな満身創痍。食事はまともに喉を通らず、中には、水をかけてごはんを流し込む選手までいたといいます。
江川卓はこのときを振り返り「夜、疲れているから、目をつむった瞬間に朝になる。でも、朝になるのが怖くて寝られなかった」とまで語っています。
そのためメニューは過酷を極め、投手は最低10キロの走り込みを行い、投げ込みは200球~300球。早朝から日が暮れるまで断続的に身体を酷使し、終わるころにはみんな満身創痍。食事はまともに喉を通らず、中には、水をかけてごはんを流し込む選手までいたといいます。
江川卓はこのときを振り返り「夜、疲れているから、目をつむった瞬間に朝になる。でも、朝になるのが怖くて寝られなかった」とまで語っています。
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血がかたまってバットにへばりついた指を、一本ずつ引き剥がしてもらった
野手にしても、練習内容はとてつもなくハード。ノックは監督とマンツーマンで2時間、最低1000スイングを義務づけられていたといいます。
その壮絶さを示す、こんなエピソードがあります。
それはキャンプ初日のこと。参加選手の一人・松本匡史は、長嶋監督からの熱血指導のもと、早朝から夕暮れ時までバットを振っていました。一日中、スイングを続けたために、手袋は破れて、手の皮もボロボロ。
破れた皮膚からは血が滲んでいたものの、なおも、バッドを離さずに振り続けるものだから、やがて血はかたまり、なんと、手がバットに引っ付いてしまったといいます。練習終了後、周囲の人に「はがして」とお願いし、指を一本ずつひきはがしてもらったというのだから、尋常ではありません。
その壮絶さを示す、こんなエピソードがあります。
それはキャンプ初日のこと。参加選手の一人・松本匡史は、長嶋監督からの熱血指導のもと、早朝から夕暮れ時までバットを振っていました。一日中、スイングを続けたために、手袋は破れて、手の皮もボロボロ。
破れた皮膚からは血が滲んでいたものの、なおも、バッドを離さずに振り続けるものだから、やがて血はかたまり、なんと、手がバットに引っ付いてしまったといいます。練習終了後、周囲の人に「はがして」とお願いし、指を一本ずつひきはがしてもらったというのだから、尋常ではありません。
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1周800メートルのクロスカントリーコース「馬場平」で行われた過酷すぎるタイムトライアル
そんなキャンプで、特に選手たちを追い込んだのが、「馬場平」という1周800メートルのクロスカントリーコースです。
オートバイのモトクロス場としてつくられたこともあって、全体的に勾配が激しいこのコース。中でも頂上付近にある、全長80メートル・傾斜30度の坂道が、最大の難所とされていました。そこで夕方恒例のトレーニングとして、コースを周回するタイムトライアルを実施。朝からの練習で、既に疲弊しきっている中でのランニングとあって、選手はバタバタと倒れていったといいます。
この時、選手のほとんどが、長嶋監督に憎しみに近い感情を抱いていたらしく、その闘争心によって、地獄の25日間をなんとか乗り切れたのだとか。
オートバイのモトクロス場としてつくられたこともあって、全体的に勾配が激しいこのコース。中でも頂上付近にある、全長80メートル・傾斜30度の坂道が、最大の難所とされていました。そこで夕方恒例のトレーニングとして、コースを周回するタイムトライアルを実施。朝からの練習で、既に疲弊しきっている中でのランニングとあって、選手はバタバタと倒れていったといいます。
この時、選手のほとんどが、長嶋監督に憎しみに近い感情を抱いていたらしく、その闘争心によって、地獄の25日間をなんとか乗り切れたのだとか。
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1980年は第3位、1981年は優勝・日本一と結果を残す
特筆すべきは、これほど身体へ負荷をかけたにも関わらず、不思議と負傷者がゼロ人だったという点。単なる偶然が、選手たちの集中力が凄まじかったのか、はたまた、ミスターの神通力か…。
いずれにしても、過酷な試練を乗り越えて、一回りも二回りも大きくなった選手たち。、翌年のペナントレースは第3位に終わり、長嶋監督は解任されてしまいますが、翌々年には、20勝の江川卓、18勝の西本聖、打率.357の篠塚和典など、才能を開花させた伊東出身の選手たちの活躍もあって、見事、優勝と日本一を果たしています。
いずれにしても、過酷な試練を乗り越えて、一回りも二回りも大きくなった選手たち。、翌年のペナントレースは第3位に終わり、長嶋監督は解任されてしまいますが、翌々年には、20勝の江川卓、18勝の西本聖、打率.357の篠塚和典など、才能を開花させた伊東出身の選手たちの活躍もあって、見事、優勝と日本一を果たしています。
まるでスポ根漫画のように壮絶だった伊東キャンプ。今の巨人に必要なのは、そんな、時代錯誤な“熱さ”なのかも知れません。
(こじへい)
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