今の巨人にこそ必要?…79年に行われた「地獄の伊東キャンプ」
2017年7月20日 更新

今の巨人にこそ必要?…79年に行われた「地獄の伊東キャンプ」

1979年秋に行われた読売ジャイアンツの「地獄の伊東キャンプ」。長嶋茂雄監督によって行われた、連日、練習終了と同時に倒れこむほどの過酷過ぎるトレーニングは、当時若手だった江川卓や篠塚和典を鍛え上げ、一流選手へと成長させました。

2,770 view

低迷するジャイアンツを見ていて連想する、1979年「地獄の伊東キャンプ」

低迷が続く読売巨人軍。今シーズンの順位は、80試合を終えて暫定第5位(2017年7月10日時点)。5月25日~6月9日にかけては、13連敗を喫するという、不名誉な球団新記録まで残してしまいました。果たしてこの先、巻き返すことはできるのでしょうか?…注目していきたいところです。
弱体化したジャイアンツで連想されるのが、1979年秋に実施された「地獄の伊東キャンプ」。長嶋茂雄第1次政権5年目となったこの年、巨人はペナントレースを第5位でフィニッシュ。2年連続で優勝を逃すという、常勝軍団としては屈辱的な結果を残してしまいます。

江川卓・篠塚和典・中畑清など、若手選手18人を集めて行われた

かつての栄光を取り戻すべく、長嶋監督は、実に43年ぶりとなる秋季キャンプの復活を決意。この時、特に急務だったのが、若手の育成。39歳になった王貞治をはじめ、主力の多くが高齢化していたために、次世代を担う若い力を徹底的に鍛え上げる必要がありました。
集められたのは、野手では中畑清(当時25歳)、松本匡史(当時25歳)、篠塚和典(当時22歳)ら12名、投手では江川卓(当時24歳)、西本聖(当時23歳)、鹿取義隆(当時22歳)ら6名。この18人の若武者たちが、25日間に及ぶ秋季キャンプを戦い抜くのです。
第1次政権時代の90番ユニフォームを披露する長嶋茂雄監督

第1次政権時代の90番ユニフォームを披露する長嶋茂雄監督

朝が来るのが怖くて、眠ることができなかった…

当時の投手コーチ曰く、長嶋からは「巨人の将来を背負って立つ若手を徹底的に鍛えたい。血ヘドを吐かせるまでやらせる」と指示を受けていたといいます。

そのためメニューは過酷を極め、投手は最低10キロの走り込みを行い、投げ込みは200球~300球。早朝から日が暮れるまで断続的に身体を酷使し、終わるころにはみんな満身創痍。食事はまともに喉を通らず、中には、水をかけてごはんを流し込む選手までいたといいます。
江川卓はこのときを振り返り「夜、疲れているから、目をつむった瞬間に朝になる。でも、朝になるのが怖くて寝られなかった」とまで語っています。
伊東キャンプを振り返る江川卓

伊東キャンプを振り返る江川卓

血がかたまってバットにへばりついた指を、一本ずつ引き剥がしてもらった

野手にしても、練習内容はとてつもなくハード。ノックは監督とマンツーマンで2時間、最低1000スイングを義務づけられていたといいます。

その壮絶さを示す、こんなエピソードがあります。
それはキャンプ初日のこと。参加選手の一人・松本匡史は、長嶋監督からの熱血指導のもと、早朝から夕暮れ時までバットを振っていました。一日中、スイングを続けたために、手袋は破れて、手の皮もボロボロ。

破れた皮膚からは血が滲んでいたものの、なおも、バッドを離さずに振り続けるものだから、やがて血はかたまり、なんと、手がバットに引っ付いてしまったといいます。練習終了後、周囲の人に「はがして」とお願いし、指を一本ずつひきはがしてもらったというのだから、尋常ではありません。
長嶋監督から熱のこもった指導を受ける松本匡史

長嶋監督から熱のこもった指導を受ける松本匡史

1周800メートルのクロスカントリーコース「馬場平」で行われた過酷すぎるタイムトライアル

そんなキャンプで、特に選手たちを追い込んだのが、「馬場平」という1周800メートルのクロスカントリーコースです。
オートバイのモトクロス場としてつくられたこともあって、全体的に勾配が激しいこのコース。中でも頂上付近にある、全長80メートル・傾斜30度の坂道が、最大の難所とされていました。そこで夕方恒例のトレーニングとして、コースを周回するタイムトライアルを実施。朝からの練習で、既に疲弊しきっている中でのランニングとあって、選手はバタバタと倒れていったといいます。

この時、選手のほとんどが、長嶋監督に憎しみに近い感情を抱いていたらしく、その闘争心によって、地獄の25日間をなんとか乗り切れたのだとか。
伊東キャンプ中の長嶋茂雄監督

伊東キャンプ中の長嶋茂雄監督

篠塚はランニング中、あまりのつらさから長嶋監督に「偉そうに言ってないで、てめーで走ってみろ!この野郎!」とタメ口で悪態をついたといいます。

1980年は第3位、1981年は優勝・日本一と結果を残す

特筆すべきは、これほど身体へ負荷をかけたにも関わらず、不思議と負傷者がゼロ人だったという点。単なる偶然が、選手たちの集中力が凄まじかったのか、はたまた、ミスターの神通力か…。

いずれにしても、過酷な試練を乗り越えて、一回りも二回りも大きくなった選手たち。、翌年のペナントレースは第3位に終わり、長嶋監督は解任されてしまいますが、翌々年には、20勝の江川卓、18勝の西本聖、打率.357の篠塚和典など、才能を開花させた伊東出身の選手たちの活躍もあって、見事、優勝と日本一を果たしています。
日刊スポーツグラフ フレッシュ巨人 激勝V1(1981年)

日刊スポーツグラフ フレッシュ巨人 激勝V1(1981年)

1981年、見事、巨人はリーグ優勝と日本一を果たします。
まるでスポ根漫画のように壮絶だった伊東キャンプ。今の巨人に必要なのは、そんな、時代錯誤な“熱さ”なのかも知れません。

(こじへい)
20 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

【リーグ優勝の瞬間】読売ジャイアンツ編

【リーグ優勝の瞬間】読売ジャイアンツ編

まだクライマックスシリーズ制度が導入されていない頃、ペナントレースが今よりもずっと価値があった頃、各球団のリーグ優勝決定の瞬間、その年の戦いぶりをご紹介しています。今回は読売ジャイアンツのリーグ優勝決定の瞬間(1990、1994、1996)を集めてみました。
和尚 | 934 view
【スター選手の引退試合・ジャイアンツ編】(江川・西本・中畑・原)

【スター選手の引退試合・ジャイアンツ編】(江川・西本・中畑・原)

スター選手の引退試合、現役最後の試合をまとめています。ここでは読売ジャイアンツで活躍した選手の引退試合を紹介します。毎年何百人というプロ野球選手が入団し、そして引退していきます。「私、引退します」と言ってプロ野球生活に別れを告げられる選手はほんの一握り、更に言えばこの様な「引退試合」「引退セレモニー」を行える選手などはごく一部。そんな特別な選手の特別な試合をどうぞご覧ください。
和尚 | 3,869 view
ホームランキング 王貞治の1本足打法   Flamingo Style Butting of Homerun King Sadaharu Oh.

ホームランキング 王貞治の1本足打法 Flamingo Style Butting of Homerun King Sadaharu Oh.

王貞治の澄んだ瞳と誠実さは尋常ではない。 個性とバカ話が渦巻く野球界にあって、ひと際、異彩を放っている。 しかし単なるお人好しじゃない。 鉄拳制裁や、、道場通い、刀を握っての練習などは、まさに鬼の所業だった。 三振王からホームラン王に、さらに世界の王となった現役時代の王貞治の軌跡を、一本足打法を中心にまとめてみました。
RAOH | 5,089 view
巨人の三本柱の一角・斎藤雅樹の「野球殿堂入りを祝う会」に王貞治ら球界関係者350人が出席!

巨人の三本柱の一角・斎藤雅樹の「野球殿堂入りを祝う会」に王貞治ら球界関係者350人が出席!

巨人・斎藤雅樹2軍監督の「野球殿堂入りを祝う会」が東京・文京区の東京ドームホテルで開かれた。王貞治ソフトバンク球団会長を始め、金田正一氏、堀内恒夫氏、原辰徳前巨人監督、高橋由伸監督ら球界関係者350人が出席した。
読売ジャイアンツの名選手、クロマティと篠塚和典が、TV番組でバッティングセンターでのホームラン打ちに挑戦!

読売ジャイアンツの名選手、クロマティと篠塚和典が、TV番組でバッティングセンターでのホームラン打ちに挑戦!

日曜・朝の番組『帰れまサンデー』(前10:00~11:15)に読売ジャイアンツの名選手、クロマティと篠塚和典が登場。「バッティングセンターでホームランを打つまで帰れない!」の第2弾に挑戦。番組ではクロマティの現役時代の名場面シーンも放送された。

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト