隆の里vs千代の富士 (昭和59年一月場所)
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横綱としての2年半
1983年9月場所は、千秋楽結びの一番において14戦全勝の横綱同士の相星決戦で千代の富士を倒して、新横綱で15戦全勝優勝を果たした。新横綱の全勝優勝は1938年(昭和13年)1月場所の双葉山以来実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙である。横綱同士の楽日全勝対決は1960年(昭和35年)3月場所の初代若乃花-栃錦、1963年(昭和38年)9月場所の柏戸-大鵬、1964年(昭和39年)3月場所の大鵬-柏戸、そしてこの一番まで4度を数えるがこれを最後に25年以上も出ていない(大関が参加した楽日全勝対決は2012年7月場所の白鵬-日馬富士で実現)。
1983年11月場所は千代の富士との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて3連覇(結果から言えば4連覇)は逃したが、同1983年において自身唯一の年間最多勝を受賞した。翌1984年1月場所でも4場所連続で千代の富士との相星決戦となり、13勝2敗で4度目の優勝を果たしたが、これが隆の里の最後の幕内優勝となった。昇進時の「おしん横綱」のほか、僧帽筋が大きく盛り上がった筋骨隆々の体型から「ポパイ」というあだ名もあった。腕力には絶対の自信を持ち、「江戸の雷電と戦ってみたかった」とも話している。
一時期は「千代隆(ちよたか)時代」の到来を期待する声もあったが、1984年3月場所以降は体力の衰えや故障が重なり、成績が徐々に下降する。1984年9月場所11日目、入幕2場所目ながら最後まで優勝を争い「黒船来襲」と恐れられた、前頭6枚目の小錦との初対戦では、強烈な小錦の押し出しに土俵外まで吹っ飛んでしまった。その後1984年11月場所から1985年(昭和60年)5月場所まで、肘の怪我悪化により手術を受けるなどで、4場所連続休場に(途中休場2場所・全休2場所)。再起を挑んだ1985年7月場所で10勝を挙げて一度は復活するが、これが隆の里の千秋楽まで皆勤出場した最後の本場所となった。
翌9月場所は初日から2連敗を喫し3日目から途中休場。11月場所は4日目、関脇北尾(のち双羽黒)を攻めきることが出来ず逆転負け、1勝3敗となったこの時点で新聞各社は引退を疑わなかったが、現役続投で5日目から又も途中休場に。進退を掛けて臨んだ1986年(昭和61年)1月場所でも本来の力は回復せず、同場所初日に保志(のち北勝海)との取組では肩透かしで敗れたのを最後に、同場所限りで現役引退(当時の年齢33歳3か月)を表明。横綱在位は15場所(約2年半)だった。このように引退時期が遅れたのは本人の引退する意思にもかかわらず、師匠・二子山の許しが出なかったからと言われる。その師匠も最後に了解したときは、涙を流していたらしい。
期間の長短はともかく、ライバルが不在がちの千代の富士に対抗した唯一の横綱、という評価も多く、また九重親方(元横綱・北の富士)も隆の里の引退時、「千代の富士が今日あるのは、ライバルとしてここまでした、という隆の里の功績も大きい」という賛辞を贈った。
小錦vs隆の里 (昭和59年九月場所)
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北尾vs隆の里 (昭和60年七月場所)
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親方として
引退後は年寄・鳴戸を襲名して、二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1989年(平成元年)2月1日付で力櫻ら6人の内弟子を連れて二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設した。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされていた。大相撲解説では分析力は角界随一と呼ばれるほど相撲知識が豊富であり、弟子を指導する時も他の親方のように頭ごなしに叱り飛ばすような指導方法は取らず、全員に分かるまで諭すというやり方をとった。本場所中のここぞという勝負どころでは長時間にわたって作戦を細かく授ける周到さも見られた。弟子を勧誘する際も一部の親方のように好条件やはったりで釣らず誠実に勧誘するのが方針であったという。一方では弟子に対する管理が厳しかった一面もあり、「独身者の預金通帳を女将に預けさせ、通帳の使用は許可制」、「弟子が5年間に20人以上引退した時期もある」などという一面も報道されたことがある。自身の現役時代の経験から弟子の指導に食育を積極的に取り入れており、食品や料理への造詣も深かった。毎日のちゃんこも自身が納得するまで何度も力士達に作り直させていたほどこだわりが強く、うどんもラーメンも、麺から力士たちが打つほどであった。NHKの料理番組「きょうの料理」の講師(魚料理)を務めたほか、2003年(平成15年)12月には著書『親方はちゃんこ番』(ポプラ社 ISBN 978-4591078167)を上梓している。
引退後は審判委員を長く続けていたが、当時の現役年寄で千代の富士以前の横綱経験者が全て理事もしくは役員待遇委員なのに対し、隆の里は北の湖や千代の富士より年上にもかかわらず、役員待遇ではなかった。二所ノ関一門に横綱・大関経験者が多過ぎることや、横綱時代の実績の差も原因と見られる。
学生相撲出身者を一切採用せず、いわゆる"中卒叩き上げ"力士を数多く入門させ、若の里、隆乃若、稀勢の里の3力士を関脇へ昇進させる等、合計7人の関取を育てた手腕が評価されている。
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59歳の若さで急死する!!
2011年(平成23年)11月6日、朝は稽古場に姿を現していたが、夜になり体調不良を訴え、39度の高熱があったため、夫人と鳴戸部屋付きの西岩親方(元幕内・隆の鶴)、幕内・若の里に付き添われ、杖をつきながら自力で歩き、福岡市の福岡輝栄会病院に車で向かうとそのまま緊急入院。喘息などの治療をしていたが、午後9時ごろに容態が急変し集中治療室に移された。関脇・稀勢の里が病院に駆けつけた際には意識不明の状態であった。翌11月7日午前9時51分、入院先の病院で家族に看取られながら、急性呼吸不全のため死去した。九州場所後の稀勢の里の大関昇進を見ないままの無念の死だった。没後すぐの部屋関係者の証言によれば鳴戸は稀勢の里大関昇進の使者を迎えるために紋付羽織袴を新調したばかりで、まだ1度しか袖を通していなかったそうである。鳴戸親方の死によりそのままでは鳴戸部屋所属者全員が11月場所に出場不能となるため、西岩が急遽名跡を鳴戸に変更して部屋を継承することが11月8日の緊急理事会にて承認された。直後の11月場所で稀勢の里は10勝5敗と際どい成績だった(直前3場所の合計成績は32勝13敗、大関昇進の目安となる合計33勝に1勝足りなかった)が場所後大関昇進が決定、鳴戸の遺影の前で伝達式が行なわれた。
晩年の鳴戸は現役時代より体重が30kg以上も増え、少々歩くと呼吸が荒くなることもあり、又本場所中に入院し、場所中の監察委員の業務を休んだこともあった。2000年ごろから心臓疾患があり、心臓発作時に服用する薬を常備するほどであった。睡眠時無呼吸症候群も併発したほか喘息に苦しんでおり、放駒理事長(当時)によると、最後は肺炎も起こしていたという。鳴戸の主治医によると両脚に蜂窩織炎もあり、40度の高熱を出すこともあったそうだ。
逆境にもめげない心・技・体に脱帽!!!
隆の里は,相撲人生に不満はないが,じつは,大学に進学したかった,と引退後に述懐している。読書好きで,手当たり次第に本を読んだという。そのうちに,経済学に興味をもち,膨大な経済学に関する専門書を買い集め,せっせと勉強していたという。経済学部を卒業したという駆け出しの新聞記者に出会うと,経済学についての教えを乞うたという。しかし,みんな隆の里の知識の量に圧倒された,という話も有名である。仲良くなった記者は,隆の里の部屋まで連れていかれ,その蔵書をみて唖然とした,という。
糖尿病という病魔と闘いながら,まじめに人生を考え,相撲しか知らない「相撲バカ」になることを恥じた。だから,時間を惜しむようにして,さまざまな分野の本を読んだ。そして,とにかく人間として生きる道を求めたのだ。さらには,絵画の才能にもめぐまれ,しばしば絵筆もとった。なかなか風情のある横綱だったのである。土俵上で,ときおり,ちらりとみせる,どこか恥じらいにも似た挙措が,ポパイのような筋肉もりもりの肉体とは裏腹に,とても繊細なものに感じたからである。
糖尿病という病魔と闘いながら,まじめに人生を考え,相撲しか知らない「相撲バカ」になることを恥じた。だから,時間を惜しむようにして,さまざまな分野の本を読んだ。そして,とにかく人間として生きる道を求めたのだ。さらには,絵画の才能にもめぐまれ,しばしば絵筆もとった。なかなか風情のある横綱だったのである。土俵上で,ときおり,ちらりとみせる,どこか恥じらいにも似た挙措が,ポパイのような筋肉もりもりの肉体とは裏腹に,とても繊細なものに感じたからである。