千代の富士 vs. 隆の里
入門から幕内定着まで
隆の里は、若三杉とともに順調に番付を上げていきますが、1972年に糖尿病を患い、以後は伸び悩みます。新入幕は、若三杉から2年遅れの1975年5月場所。因みに、千代の富士の新入幕はそのすぐ後、1975年9月場所です。
隆の里、千代の富士の二人に共通するのは、新入幕からトントン拍子で大関まで昇進したわけではなく、十両に陥落した点や平幕が長かった点です。幕内に定着したのは、奇しくも、隆の里が1979年5月場所、千代の富士が1979年7月場所からでした。
共に上京した若三杉(のちの二代目若乃花)
ライバルたちに先を越され・・・
千代の富士もその後は順調に昇進し、1981年1月場所、関脇の時に14勝1敗で初優勝。翌場所に大関に昇進すると、三場所で大関を抜け、1981年9月場所、横綱に昇進しました。この時、隆の里の番付は小結です。
千代の富士の優勝
千代の富士の天敵
特に、1981年7月場所から1982年9月場所までは8連勝と千代の富士を圧倒。横綱なりたてで勢いのあった千代の富士でしたが、隆の里相手には何をやってもうまくいかず、横綱最初の場所は隆の里戦で負傷し、休場に追い込まれたほどです。隆の里もちょうどこの時期に活躍し、大関昇進を果たしています。
「千代の富士に勝つということは3勝分の価値があった。勝てば評価も上がるし、自信もつく」
「打倒、千代の富士」を誓ってからは取組映像をビデオが擦り切れるほど、何度も見返して研究を重ねた。立ち合いの場面でスローモーションと一時停止を繰り返すあまり、新品のビデオデッキは即、廃品になった。ライバルに関する新聞記事、写真、コメントは全て穴があくほど目を通し、情報を頭に叩き込んだ。わずかな心の隙も見せまいと、巡業の取組でも“本場所モード”で勝ちにいった。
隆の里 vs. 千代の富士(1982年1月場所)
念願の横綱昇進
その後は11勝4敗、12勝3敗、13勝2敗と1勝ずつ成績が上昇し、迎えた1983年7月場所。千秋楽結びの一番で、千代の富士と1敗同士の相星決戦となります。がっぷり四つの長い一番で、最後は隆の里が外掛けから怪力で千代の富士を寄り倒して勝利。14勝1敗で二度目の優勝を果たし、文句なしの横綱昇進を決めました。
この時、隆の里は30歳。糖尿病に耐えて横綱昇進を勝ち取った苦労から、当時放送中のNHK朝の連ドラ『おしん』になぞらえて「おしん横綱」と呼ばれました。また、当時放送中のNHK大河ドラマ『徳川家康』も含めて、辛抱する人の代表として「おしん・家康・隆の里」という流行語まで誕生しています。
隆の里 vs. 千代の富士(1983年7月場所)
短いながら盛り上がった二強時代
結局、1983年7月場所から1984年1月場所まで4場所連続で、千秋楽結びの一番の相星決戦となり、結果は、隆の里の3勝1敗。千代の富士が隆の里に負けて優勝を逃した場所は他にもあり、隆の里がいなければ、千代の富士の優勝回数はもっと多かったかもしれません。
隆の里の活躍で、柏鵬時代、輪湖時代のような二強時代の到来を期待する声もありましたが、その後、遅咲きの横綱ゆえの体力の衰えや故障などあり、成績は伸びず。1984年11月場所以降はほとんど休場で、結局、横綱になって以降、一度も成績が上がることなく、1986年1月場所で引退しました。
ライバルの去った後、千代の富士の一強時代が続いたことは言うまでもありません。