千代の富士 vs. 隆の里
第58代横綱・千代の富士と第59代横綱・隆の里。横綱に昇進したのは千代の富士が先ですが、年齢は隆の里の方が3歳上です。同世代の二人は、初土俵から綱取りまで、似たようなタイミングで昇進し、ライバルとして戦い、数々の名勝負を繰り広げてきました。隆の里の経歴を中心に、二人の昇進、対戦を振り返ります。
入門から幕内定着まで
隆の里俊英は、1952年生まれの青森県出身。のちの二代目若乃花(改名前は若三杉)とともにスカウトされて上京し、二子山部屋に入門します。初土俵は1968年7月。因みに、千代の富士の初土俵は、2年後の1970年9月です。
隆の里は、若三杉とともに順調に番付を上げていきますが、1972年に糖尿病を患い、以後は伸び悩みます。新入幕は、若三杉から2年遅れの1975年5月場所。因みに、千代の富士の新入幕はそのすぐ後、1975年9月場所です。
隆の里、千代の富士の二人に共通するのは、新入幕からトントン拍子で大関まで昇進したわけではなく、十両に陥落した点や平幕が長かった点です。幕内に定着したのは、奇しくも、隆の里が1979年5月場所、千代の富士が1979年7月場所からでした。
隆の里は、若三杉とともに順調に番付を上げていきますが、1972年に糖尿病を患い、以後は伸び悩みます。新入幕は、若三杉から2年遅れの1975年5月場所。因みに、千代の富士の新入幕はそのすぐ後、1975年9月場所です。
隆の里、千代の富士の二人に共通するのは、新入幕からトントン拍子で大関まで昇進したわけではなく、十両に陥落した点や平幕が長かった点です。幕内に定着したのは、奇しくも、隆の里が1979年5月場所、千代の富士が1979年7月場所からでした。
共に上京した若三杉(のちの二代目若乃花)
輪島vs若三杉 (昭和49年十一月場所)
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ライバルたちに先を越され・・・
隆の里が幕内に定着した1979年、二代目若乃花はすでに横綱として活躍しており、彼を含めた一学年下の「花のニッパチ組(昭和28年・1953年生まれ)」もまた、隆の里の先を行っていました。北の湖は押しも押されもせぬ大横綱、麒麟児と金城は1974年から幕内に定着、大錦は1973年に三賞独占と華々しい活躍を見せていました。
千代の富士もその後は順調に昇進し、1981年1月場所、関脇の時に14勝1敗で初優勝。翌場所に大関に昇進すると、三場所で大関を抜け、1981年9月場所、横綱に昇進しました。この時、隆の里の番付は小結です。
千代の富士もその後は順調に昇進し、1981年1月場所、関脇の時に14勝1敗で初優勝。翌場所に大関に昇進すると、三場所で大関を抜け、1981年9月場所、横綱に昇進しました。この時、隆の里の番付は小結です。
千代の富士の優勝
千代の富士の天皇賜杯
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千代の富士の天敵
隆の里の現役当時、千代の富士は無敵の最強横綱でしたが、その千代の富士が最も苦手としていた力士が隆の里でした。隆の里は、千代の富士の全盛期に対戦していながら、その幕内対戦成績は16勝12敗。千代の富士と20戦以上対戦して、勝ち越している力士は隆の里だけです。
特に、1981年7月場所から1982年9月場所までは8連勝と千代の富士を圧倒。横綱なりたてで勢いのあった千代の富士でしたが、隆の里相手には何をやってもうまくいかず、横綱最初の場所は隆の里戦で負傷し、休場に追い込まれたほどです。隆の里もちょうどこの時期に活躍し、大関昇進を果たしています。
特に、1981年7月場所から1982年9月場所までは8連勝と千代の富士を圧倒。横綱なりたてで勢いのあった千代の富士でしたが、隆の里相手には何をやってもうまくいかず、横綱最初の場所は隆の里戦で負傷し、休場に追い込まれたほどです。隆の里もちょうどこの時期に活躍し、大関昇進を果たしています。
「千代の富士に勝つということは3勝分の価値があった。勝てば評価も上がるし、自信もつく」
「打倒、千代の富士」を誓ってからは取組映像をビデオが擦り切れるほど、何度も見返して研究を重ねた。立ち合いの場面でスローモーションと一時停止を繰り返すあまり、新品のビデオデッキは即、廃品になった。ライバルに関する新聞記事、写真、コメントは全て穴があくほど目を通し、情報を頭に叩き込んだ。わずかな心の隙も見せまいと、巡業の取組でも“本場所モード”で勝ちにいった。
隆の里 vs. 千代の富士(1982年1月場所)
千代の富士vs隆の里 (昭和57一月場所)
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念願の横綱昇進
隆の里は、1982年9月場所に15戦全勝で悲願の初優勝。翌場所は、いよいよ綱取りをかける場所となります。が、結果は10勝5敗。千代の富士にも敗れ、連勝記録も8でストップしてしまいます。
その後は11勝4敗、12勝3敗、13勝2敗と1勝ずつ成績が上昇し、迎えた1983年7月場所。千秋楽結びの一番で、千代の富士と1敗同士の相星決戦となります。がっぷり四つの長い一番で、最後は隆の里が外掛けから怪力で千代の富士を寄り倒して勝利。14勝1敗で二度目の優勝を果たし、文句なしの横綱昇進を決めました。
この時、隆の里は30歳。糖尿病に耐えて横綱昇進を勝ち取った苦労から、当時放送中のNHK朝の連ドラ『おしん』になぞらえて「おしん横綱」と呼ばれました。また、当時放送中のNHK大河ドラマ『徳川家康』も含めて、辛抱する人の代表として「おしん・家康・隆の里」という流行語まで誕生しています。
その後は11勝4敗、12勝3敗、13勝2敗と1勝ずつ成績が上昇し、迎えた1983年7月場所。千秋楽結びの一番で、千代の富士と1敗同士の相星決戦となります。がっぷり四つの長い一番で、最後は隆の里が外掛けから怪力で千代の富士を寄り倒して勝利。14勝1敗で二度目の優勝を果たし、文句なしの横綱昇進を決めました。
この時、隆の里は30歳。糖尿病に耐えて横綱昇進を勝ち取った苦労から、当時放送中のNHK朝の連ドラ『おしん』になぞらえて「おしん横綱」と呼ばれました。また、当時放送中のNHK大河ドラマ『徳川家康』も含めて、辛抱する人の代表として「おしん・家康・隆の里」という流行語まで誕生しています。
隆の里 vs. 千代の富士(1983年7月場所)
千代の富士vs隆の里 (昭和58年七月場所)
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短いながら盛り上がった二強時代
横綱として最初の場所となった1983年9月場所も、千秋楽結びの一番で千代の富士との相星決戦となります。今度は全勝同士。勝った方が全勝優勝です。千代の富士が攻め、隆の里が粘る一番で、最後は、千代の富士が攻めてきたところを隆の里が吊り出して勝利。二場所連続の相星決戦で千代の富士を破り連続優勝、しかも横綱としての初場所を全勝優勝で終えました。
結局、1983年7月場所から1984年1月場所まで4場所連続で、千秋楽結びの一番の相星決戦となり、結果は、隆の里の3勝1敗。千代の富士が隆の里に負けて優勝を逃した場所は他にもあり、隆の里がいなければ、千代の富士の優勝回数はもっと多かったかもしれません。
隆の里の活躍で、柏鵬時代、輪湖時代のような二強時代の到来を期待する声もありましたが、その後、遅咲きの横綱ゆえの体力の衰えや故障などあり、成績は伸びず。1984年11月場所以降はほとんど休場で、結局、横綱になって以降、一度も成績が上がることなく、1986年1月場所で引退しました。
ライバルの去った後、千代の富士の一強時代が続いたことは言うまでもありません。
結局、1983年7月場所から1984年1月場所まで4場所連続で、千秋楽結びの一番の相星決戦となり、結果は、隆の里の3勝1敗。千代の富士が隆の里に負けて優勝を逃した場所は他にもあり、隆の里がいなければ、千代の富士の優勝回数はもっと多かったかもしれません。
隆の里の活躍で、柏鵬時代、輪湖時代のような二強時代の到来を期待する声もありましたが、その後、遅咲きの横綱ゆえの体力の衰えや故障などあり、成績は伸びず。1984年11月場所以降はほとんど休場で、結局、横綱になって以降、一度も成績が上がることなく、1986年1月場所で引退しました。
ライバルの去った後、千代の富士の一強時代が続いたことは言うまでもありません。
横綱 隆の里
横綱隆の里 最後の皆勤場所(S.60.7)
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隆の里 vs. 千代の富士
千代の富士 対 隆の里 11番
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