裏街道の野球人生
阿波野は、高校は甲子園出場が難しい公立高校に進学した。自ら甲子園を目指さなかったともいえる。大学は日の当たる六大学ではなく東都大学リーグの亜細亜大学に入学した。
そして、ドラフトでは…
そして、ドラフトでは…
横浜市立鶴ヶ峯中学校時代、東海大学付属相模高等学校からの誘いを受けていたにもかかわらず[1]、敢えて公立の桜丘高校を志望し、塾通いして文武両道を目指した。桜丘高校では3年夏の神奈川大会は4回戦で敗退。
高校卒業後は亜細亜大学に進学(同期にパンチ佐藤、1年後輩に与田剛がいる)。東都大学リーグで通算62試合登板32勝17敗、防御率1.83、282奪三振。最高殊勲選手に1度、最優秀投手に3度、ベストナインに3度選ばれた。4年生秋の9勝はリーグタイ記録。
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1986年のドラフト会議で、読売ジャイアンツ、横浜大洋ホエールズ、近鉄バファローズの3球団が1位指名で競合。阿波野の意中球団は巨人か大洋と言われていたが、抽選の結果、交渉権確定のくじを引き当てたのは近鉄だった。
その瞬間、阿波野は「えっ…」という顔をした。周りにいた学生たちも落胆し、会場は重苦しいムードに包まれた。よりによって、在京セ・リーグから一番遠い球団、すなわち在阪パ・リーグの近鉄が交渉権を獲得したからだ。生真面目な阿波野は入団を拒否しなかったものの、「俺の人生は裏街道だ」と嘆いた。
プロ1年目 新人王
32試合 15勝12敗 完投22 完封3 249 2/3回 201奪三振 防御率2.88
最多奪三振、新人王
最多奪三振、新人王
ルーキーイヤーの1987年に、15勝、両リーグ最多の201奪三振・249.2イニングを記録。同い年で、同じ1986年ドラフト1位でプロ入りの西崎幸広(日本ハム)と熾烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗・防御率2.88、西崎は30試合登板で15勝7敗・防御率2.89と甲乙つけがたい成績を残したが、結果は大差がついて阿波野が新人王に選出された。両者は共に「トレンディエース」と呼ばれ、特に女性に高い人気を誇った。
1987年 阿波野vs西崎 新人王争い - YouTube
1987年
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141対51
プロ1年目の1987年、阿波野は勝ち星を積み上げ、ライバルの西崎と激烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗、防御率は2.88。西崎は30試合登板で15勝7敗、防御率2.89。成績はほぼ互角だったが、ふたを開けてみると、阿波野が大差で新人王を獲得した。その背景に「人柄」の違いがあった。投票権を持つのは、マスコミ各社の野球担当記者。ぶっきらぼうな西崎よりソフトな阿波野の方が、記者のウケが良かったのだ。
プロ2年目 「10.19」では悲劇の主人公
29試合 14勝12敗1セーブ 完投15 完封3 220 1/3回 181奪三振 防御率2.61
1988年は、前年同様、エースとして14勝を挙げる。ナゴヤ球場でのオールスターゲーム第2戦先発し3回を被安打0自責点0奪三振3を記録。
「10.19」 ダブルヘッダー第1試合
レギュラーシーズン優勝のかかったロッテとの川崎球場でのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」に、両試合とも当時の抑え吉井理人の後を受け連投。この試合の2日前、阿波野は対阪急戦で完投しており疲労が残っていた。第1試合では9回、1点リードで二死満塁のピンチを迎えたが、森田芳彦を三振にしとめ、逃げ切った。このとき阿波野は帽子を鷲掴みにしてガッツポーズした。